先日、ひょんなことから母方のご先祖様が天狗だったことが判明した。
天狗といっても、赤ら顔で鼻が高く、背中に生えた羽で空を飛び、団扇でいろいろやらかす妖怪のことではない。水戸の天狗党である。
水戸天狗党
水戸藩の尊王攘夷派のこと。水戸藩の尊皇攘夷思想は二代藩主徳川光圀(水戸黄門)による大日本史の編纂を通じて次第に形成されていき、幕末には九代藩主斉昭および側近の藤田東湖のもとで全国に影響を与えるほどになっていた。そして1864(元治元)年3月、攘夷を幕府に迫るため筑波山で兵を挙げた。しかし、幕府の追討軍や諸生党(水戸藩保守派)の軍に破れ、水戸藩北部の大子へと落ち延びていった。
大子で体制を整えた天狗党は、尊王攘夷の意志を一橋慶喜に訴えようと京都に向けて出発。途中、高崎藩兵や松本・諏訪藩兵との戦いに勝利し、新保(福井県敦賀市)まで進軍するものの、幕府軍に包囲され、降伏。総大将の元水戸藩家老、武田耕雲斎を筆頭に、一行の約3分の1にあたる353人が死罪となった。
諸生党が実権を握った水戸藩内では天狗党側の人々が次々と処罰されていったが、後に天狗党側が実権を取り戻すと諸生党への壮絶な復讐が始まった。こうして、水戸藩は内部抗争により多くの人材を失い、明治新政府で重要なポストを占めることができなかったのである。
攘夷といえば聞こえはよいが、つまりは外国勢は出て行けというわけで、現在アフガニスタンやイラクでテロを引き起こしている連中とやっていることは同じである。水戸浪士が中心となった桜田門外の変は政府要人を狙ったテロ、東禅寺事件は外国人を狙ったテロである。
さて、母方のご先祖様はこの水戸天狗党に参加し、敦賀まで行ったのだという。母の実家が武士の家柄だったとは思えないので、農民兵として参加したのだろう。母方の血筋の性格を考えると、尊皇攘夷の意志を持って参加したのではなく、ただなんとなくついていっただけのような気がしてならない。うっかり八兵衛みたいな。
で、結果はどうだったかというと、敦賀で処刑された353名に含まれるそうな。幹部クラスはともかく、下っ端で死罪となったのは「御追手の面々へ御敵対」した者らしいので、それなりに戦ったのかもしれない。いまとなってはどんな活躍をしたのか、そもそも本当に参加したのか確かめる術はないのだが、ここは本当だと信じておくことにする。
それはさておき。死罪になったのだとすればひとつの疑問が。なんで俺はここにいるの?
というわけで今回の旅は、天狗党の西上を辿ってみようというわけである。天狗党が大子を発ったのは1864(元治元)年11月29日(旧暦11月1日)。いまから141年前のことだ。江戸時代ではあるが、ペリー来航(1853年)からは9年が経過し、明治改元(1868年)まであと4年。明治時代は目前に迫っていた。
私が常陸大子駅前を出発したのは、2005年10月7日の午後1時過ぎである。本当は天狗党に倣って午前2時頃の出発を予定していたのだが、準備に手間取り出発が遅れてしまった。

常陸大子駅
天気はあまりよくない。いまにも雨が降り出しそうだ。まずは国道461号を西へ。水郡線の踏切を渡る。もちろん、天狗党の時代に水郡線は存在しなかった。日本最初の鉄道が開通したのは1872年10月14日、天狗党の西上から8年後である。生き残った者の中には鉄道を見ることができた者もいるだろう。
上岡三差路から栃木県道・茨城県道205号 須賀川大子線へ。茨城 - 栃木県境を茶の里トンネルで抜ける。できれば天狗党が通過した旧道の峠道を通りたかったのだが、入り口が閉鎖されており車での通行は不可能だった。残念。
須賀川で栃木県道13号 大子黒羽線へ。明神峠を越える。明神峠も現在はトンネルが開通しているが、こちらは旧道の通行が可能だ。ここは旧道を通る。両側から雑草が迫り、路側帯は完全に埋もれている。センターラインがきれいに引かれているだけにかえって圧迫感がある。峠はゆるやかで、えっ?もう終わり?という感じ。峠を下り、須佐木から栃木県道321号 南方須佐木で北上する。雲厳寺前を通過。川上から富士見林道…おっと行き過ぎた。引き返してこんどこそ富士見林道へ。あれ?工事中で全面通行止め?
封鎖されていないので入ってみたが、峠に差し掛かるあたりで工事中となり、通過は無理そうだ。そこで、須佐木まで戻って国道461号で少し西に進み、清水内から北上して木佐美へと出ることにした。天狗党が進んだのは現在の富士見林道ではなく、その少し南に位置した南方鰻坂という道らしい。清水内から北上する道はこの道と少しかぶるところがあるようなので、これはこれでいいかと自分を納得させる。
ゴルフ倶楽部ゴールデンウッドの中を通って前郷へ。東へと延びる細い道がある。たぶんこれが南方鰻坂だろう。前松葉川を渡り、寺宿へ。黒磯カントリークラブの横を抜ける。松葉川を渡ると河原だ。ここから栃木県道27号 那須黒羽茂木線に入り五斗蒔へ…おっとまた曲がる方向を間違えた。Uターンして五斗蒔へ。五斗蒔では旧道と思われる道に入ってみる。アスファルトに電柱は致し方ないとしても、天狗党が通過したころの雰囲気が残っているような気がする。

五斗蒔
五斗蒔から丘を越えるように進むと伊王野の街だ。ここも県道を外れて市街地に入ってみる。伊王野からは国道294号で北上し、芦野へ向かう。ここでもまた旧道を外れて街の中へ。芦野郵便局でUターンして、三光寺近くのY字路を右へ。これが旧奥州街道らしい。なんでこんなややこしい挙動をとったかというと、道が狭くて伊王野側から曲がることができなかっただけだったりする。
栃木県道72号 大田原芦野線を南西に進む。黒川橋を渡り、富士見峠を越え、坂を下り終わったところから那珂川に沿って北上。この道で本当にいいのかな。芦の又から栃木県道178号 稲沢高久線に入る。ここはどこだと思った次の瞬間、目の前を東北新幹線が通過していった。天狗党の面々がこれを見たら腰を抜かすだろうなと考えながら東北本線、東北新幹線、国道4号の下を次々と通過。あれ、そういえば越堀と鍋掛はいつの間にか通り過ぎてしまったらしい。
那珂川を渡って栃木県道303号 黒磯高久線へ。ここでも曲がる方向を間違えた。Uターンする場所を探していると、ちょうどよい具合にショッピングモール(イオンタウン那須ショッピングセンター)があったのでここで休憩。時刻は午後3時前。出発してから1時間半しか経過していないのに、天狗党が4日掛けた道程を走破したことになる。
低く雲が立ち込め、わずかに差す陽の光は夕方のそれである。なんとも憂鬱になる天気だ。再び県道303号へ出て北上。雇用促進住宅 西原宿舎の近くから側道に入り、新高久を経由して栃木県道17号 那須高原線に出る。晩翠橋で那珂川を渡って黒磯市街へ。高久神社の周囲をぐるっと一周したことになる。
黒磯市街もなるべく旧街道らしきところを通ろうとするが、一方通行があってままならない。適当に迂回して市街地を南西へ。東北新幹線の高架に沿って走る。黒磯消防署の手前でまたまた県道303号に入る。東北新幹線と東北本線を越え、大塚新田交差点から国道4号へ。右に那須、左に八溝の山々を見ながら、那須の原野を南西へと進む。さすがは国道4号、あっという間に那須塩原駅の入り口を過ぎ、蛇尾川を渡る。それから少し進み、西富山交差点から広域農道ライスラインへと入る。本当はもっと手前の交差点から槻沢へと入る予定だったのだが、入るところを見落としてしまった。
ライスラインから右折し、石林へと向かう。おいおい本当にこの道でいいのか?まあ、前を走っている車についていけばどこかに出るはず…見失った。というか迷子になった。道は狭く、お世辞にも立派だとは言い難いのだが、周囲に建っている家は新しいものが多い。古くからの集落なのか新しい住宅街なのかいまひとつわからん。適当にあたりをつけて西那須野駅を目指して走る。天狗党もこの付近では間道を通行することになり、だいぶ難儀したようだ。完全に同じ道を辿ったわけではないだろうが、同じような思いができたのでよしとする。
西那須野駅前から栃木県道306号 西那須野下石上線で再び東北本線沿いに進む。途中、野崎工業団地の手前で右折し、団地の中へと入る。天狗党がこの付近でどのようなルートで進んだのかはわからないが、団地の中に温泉神社とやらがあるので、たぶんその付近には昔から道があったに違いないという勝手な想像の下に走ってみた。工業団地に沿う太い道路を横断し、下石上で国道4号へと出る。トラックがもの凄い勢いで行き交っている。トラックの列の切れ目を狙ってなんとか合流。

下石上
天狗党はここから箒川を渡ったのだが、車で川に突入するわけにもいかないので、そのまま国道4号を進んで野崎橋で箒川を渡る。橋を渡って最初の信号で右折し、箒川沿いに走る。山田の手前で車を止めて塩原の方向を眺めるが、雲の中に隠れてよく見えない。山田から箒根神社を迂回するようにして矢板へと向かう。途中、「会津西街道」と書かれた杭が立っていた。下太田から栃木県道30号 矢板那須線で南下。矢板の街には入らずに田んぼの中を進む。突き当たりの国道461号との交差点にあるファミリーマート 矢板北店で休憩。そういえば大子を出発したときの道も国道461号だった。ここまでいかに大回りをしてきたかがわかる。
ファミリーマート 矢板北店から国道461号を日光方面へと進み、中川橋を渡るとすぐに左折、川崎反町へ向けて南下する。川崎反町を抜けると栃木県道242号 矢板塩谷線との交差点に出るので、ここを右折。東北自動車道をくぐって西へ。少しばかり勾配がついた道が続き、矢板市から塩谷町に入る。道路は栃木県道74号 塩谷喜連川線となる。大宮神社の前の交差点を左折し、栃木県道63号 藤原宇都宮線の旧道を南下する。そのまま鬼怒川を渡ろうとすると、なんと旧上平橋はすでに撤去済み。
気を取り直して新しい上平橋を渡る。渡ったらすぐに鬼怒川沿いに西へ…曲がるところがわからん。どうやら行き過ぎたようだ。少し戻るとY字路があった。なるほど、いったん東側に曲がって県道63号の下をくぐる…ってそんなんわかるか。ようやく鬼怒川沿いに出ることができ、小林へと向かう。謡辻から栃木県道159号 小林逆面線に入り、さらに西へ。バイクに乗った高校生が前を走っている。時計を見ると午後4時45分、もう学校が終わる時間だ。

鬼怒川
塩野室郵便局前交差点を左折する。バイクの高校生は郵便局へ入っていった。栃木県道77号 宇都宮船生藤原線で南下。道はゆるやかなカーブがあるものの、ほぼ真っ直ぐで走りやすい。しばらく南下を続けると国道119号、すなわち日光街道に出た。これを宇都宮方面へ。徳次郎交差点を右折し、国道293号に入る。ろまんちっく村の前を通過するころにはだいぶ暗くなってきた。それと同時に、たいぶ交通量が増えてきたような気がする。そろそろ帰宅ラッシュの時間なのかもしれない。
栃木県道22号 大沢宇都宮線を越えたところから、旧道と思われる道に入る。思ったよりも狭いが、対向車がないのでそれほど走りにくいわけではない。国道293号に復帰すると、そのまま流れに乗って鹿沼へ向かう。栃窪を通過する頃には真っ暗だ。日光線を越える跨線橋のあたりから渋滞にはまる。鹿沼駅前で右折し、府中橋を渡って鹿沼市役所前へ。交差点を左折し、さらに国道293号を進む。ここからは日光例幣使街道だ。

鹿沼
鹿沼市内はずっと混雑したままだ。少し進んでは止まるの繰り返し。追分交差点で国道352号と分かれる。小倉橋で思川を越え、栃木県道3号 宇都宮亀和田栃木線へ。
金崎交差点で右折し、東武日光線の踏切を渡る。そのまま南西に進んで再び国道293号へ。少しでも金崎の街の雰囲気を味わいたかったので、あえて国道を外れて街の中を走ってみたのだが、真っ暗でよくわからなかった。残念。
大柿、尻内を通過。いままで違って流れが速く、あっという間だ。会沢峠に差し掛かる。ここも本当は旧道で越えたかったのだが、車での通過は無理っぽい。素直にトンネルを通過する。峠からは緩やかなカーブ続く。ここでも国道を離れ、葛生の街へと入る。時刻は午後6時20分。まだ宵の口だと思うが、街はすっかり夜の闇に覆われていた。人通りはほとんどなく、車もそれほど多くはない。真夜中のように思えてしまう。

葛生
秋山川を天神橋で渡って国道293号へ。そのまま国道を田沼まで進む。栃木県南総合病院の手前のY字炉を左に入り、田沼駅前を通って一瓶塚稲荷神社の前の交差点へ出る。ここをクランク状に直進し、栃木県道16号 佐野田沼線を越える。ここから先は完全な生活道路だ。本当に抜けられるのかどうか不安になる。ここから先はさらに道が細い。向こうから車が来たらアウトだ、と思った矢先、来ちゃったよ。
曲がろうとしていたT字路の向こうから対向車が現れた。T字路をいったん通り過ぎてやりすごし、バックでT字路まで戻る。道が狭いうえに微妙に曲がっているためバックしにくい。まあ、生活道路を無理に進む私が悪いのだが。
天狗党はここでも間道を通行させられたとのことなので、同じ気分を味わうためにあえて整備された道は通らないということにしておこう。おっと、どこかの工場に入ってしまうところだった。工場の正門前でUターンは恥ずかしいなあ。守衛さんが見ているだろうし。
稲岡橋で旗川を渡り、栃木県道175号 山形寺岡線との交差点に出る。交差点を左折し、県道を南へ向かう。寺岡を過ぎると栃木県道・群馬県道128号 佐野太田線になる。川崎橋で渡良瀬川を渡る。梁田を通過後、国道50号を渡る。茨城から西へと延びる道路を渡るのはこれで何回目だろう。目的地の京都に対してとてつもなく迂回していることをあらためて思い知らされる。
信号でたびたび止められるが、渋滞することもなく八木、新宿を通過。東長岡交差点で左折して国道122号を南にほんのわずかに進み、次の信号で右折。本当は東長岡の手前のY字路で曲がるはずだったのに、道が狭くて見逃してしまった。新島町交差点から群馬県道2号 前橋館林線で太田市の中心部へ向かう。あ、そういえば群馬県に入ったのか。
太田市内も混雑している。ここで天狗党が宿泊したという大光院に向かってみる。あれ、曲がる交差点が早すぎた。本当は群馬県道321号 金山城趾線に入るはずなのに、平和通りに入ってしまった。東京電力 太田支社を過ぎた交差点を左折してみる。うわ、狭っ!市営東山球場の南側を通り、金山町の交直進して…あれ?また行き過ぎた。Uターンしようにも、道が狭くてそれどころではない。しかも交通量が多く、下手に止まろうものならほかの車の妨げになりそうだ。それでもなんとかUターンできそうなところを見つけ、来た道を戻る。うん、こんどは大丈夫だ。大光院前に到着。時刻は午後7時半。

大光院
大光院から太田市内へ戻る。また道を間違えた。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。なんとか県道2号に復帰。西本町のY字路を左に曲がり、群馬県道312号 太田境東線へ。木崎を過ぎ、上町会館前の交差点を左…だからこんなんわからんつーっの!またもや行き過ぎて戻ってくるはめに。上町から南下開始。国道354号バイパスを越え、新田下江田町を通り、神前橋を渡って国道17号へ。そのまま国道17号を横断して進むと…どこだここは。右手に工業団地を見ながら西に進む。適当に走っていたら群馬県道69号 大間々尾島線に出た。ここを左折し、南下を再開。世良田交差点で国道354号を越えると、ここから先は群馬県道・埼玉県道14号 伊勢崎深谷線だ。せっかくなので世良田東照宮に立ち寄ってみる。

世良田東照宮
上武大橋で利根川を渡る。私はあっさり渡ってしまったが、天狗党は利根川の渡河にかなり苦労したようだ。岡部藩家老 吉野六郎左衛門を説得して船を出させたものの、数が足りずに大混乱をきたし、近くの農家を壊して船を造ってしまう者、おりから入った商船で強引に渡ってしまう者などがいたという。渡河は夜間に行われ、この間に数名の逃亡者が出たともいう。また、隊からはぐれた者は岡部藩に捕縛され、処刑されたそうである。
橋を渡って最初の信号を右折。埼玉県道・群馬県道258号 中瀬牧西線を利根川に沿うように走り、小和瀬交差点で右折。そのまま道なりに進んで、諏訪神社の前を通って本庄市街へ…ってまたもや行き過ぎ。田んぼの中の道なので曲がる箇所がわかりにくいんだよなあ。しかも雨が降り出しているし。引き返して諏訪神社の前を通過。日の出交差点で国道17号に出る。ここは右折で本庄市街へ向かうところだが、あえて左折して東京方面へ。最寄りのスタンドがそちら側だったからだ。ガソリンの残りにはまだ余裕があったのだが、24時間営業のスタンド以外はそろそろ閉店の時間なので、この後の夜間走行に備えておこうとの判断である。
給油後、国道17号を高崎方面へ。いつの間にか雨が止んでいる。東台5丁目交差点で左折し、さらに中山道交差点で右折。埼玉県道392号 勅使河原本庄線こと旧中山道へと入る。これで少しは京都への道が見えてきたというものだ。商店街は既にシャッターが降りており、人の姿は見えない。もう午後9時近いので当たり前か。車もそれほど多くなく、ときどき2、3台がまとまって通過していくだけだ。
そのまま国道17号へは出ずに、県道392号を進む。神保原で国道17号を越え、金久保方面へ。賀美公民館の手前のY字路を右に入り、西金久保へ向かう。天狗党はここから神流川の対岸に陣を構える高崎藩兵を見やり、進路を左へ変えたという。私もそれに倣って神流川方面を見てみる。

西金久保
もちろん、現在は高崎藩兵が待ち構えていることはない。代わりというわけでもないだろうが、陸上自衛隊 新町駐屯地の灯が出迎えてくれた。西金久保からいったん国道17号に出て、すぐに左折。高崎線を越えて大光寺の前を通り、関越自動車道 上里PAに出た。上里PAの周りをぐるっと一周。げ、未舗装だよ。本当に通れるのか、これ。でもなんとか通れそうだ。うわ、南側は草ぼうぼうで本来の道幅の半分もない。どこか神流川の対岸が見えるところがないかと思ったが、それどころではない。結局、関越道を越えただけでほとんど元の場所に戻ってきた。
上越新幹線の下をくぐり、次の十字路で右折。長浜の交差点から国道254号に入り、藤武橋で神流川を渡る。小林交差点を直進し群馬県道・埼玉県道23号 藤岡本庄線へ。八高線の踏切を渡って右折し、四丁目交差点で左折。一行寺の前を通り、上大塚西交差点から国道254号へ。ここからしばらくは国道をそのまま進む。国道254号はかつての信州街道から大きく外れることはなく、昔の街道筋の面影を残している。吉井を過ぎて少し走ったところにあるセブンイレブン 群馬吉井長根店で食料調達のついでに休憩する。シートを倒し、横になって疲れを癒す。とはいえあまり休んでいる時間はない。出発が予定より半日ほど遅れていることを思い出し、再びハンドルを握る。国道254号を西へ。富岡バイパスは通らず、旧道で富岡市街へと入る。
七日市交差点で左折し、国道254号を離れて南へ向かう。七日市藩の要請により、天狗党はここでも間道を通行したそうである。そこで私も天狗党と同じように鏑川を渡ってみることにした。天狗党は旧官営富岡製糸工場の東側から渡河したとのことであるが、私は車の都合により工場の西側に掛かる桐渕橋から渡ることに…オーノー!工事中で桐渕橋に入れまセーン!
強制的にUターンさせれられ元の交差点に。なんじゃそりゃ。結局、次の交差点から桐渕橋に出ることができた。中高瀬の交差点で右折し、さらに次の交差点でも右折。上高瀬に入る。うわ、これは完全な生活道路だな。和合橋で再び鏑川を渡る。そのまま国道254号との交差点を直進し、群馬県道199号 菅原富岡線へ。貫前神社の前を通り、西へ向かう。なんだかだんだん国道254号から離れていくような…どこだここ?ありゃ、また行き過ぎた。
坂井バス停近くの道を南へと入り、坂道を上る。なんかつづら折れになっているし、本当に大丈夫なのかな?不安を抱きながら進むと西中学校の前に出た。うーん、狭いながらも道は続くようだ。さらにここから西へ…げっ、車では通れない。校門の前でUターン。こんなご時世だけに、学校の近くで怪しい行動をとっているとたちまち捕まってしまう。急いで離脱。
なんかよくわからんうちに上信電鉄 上信線と蚊沼川の間の道に出た。本当はこの北側の道を通るはずだったけど、まあいいか。真っ直ぐ進んでいくと上信越自動車道の下を通り、群馬県道48号 下仁田安中倉渕線に出た。これを左折して南蛇井駅方面に…あう、また曲がる交差点がひとつ手前だった。こりゃ勧学寺に通じる道ですがな。引き返して南蛇井駅前の北側を通る道へ入る。狭っ!これは対向車が来たら面倒だ。そのまま上信電鉄沿いに進み、千平駅の手前で踏切を渡る。そのまま千平駅前へ向かうとついに対向車が現れた。ちょっと苦労するがなんとかやり過ごす。千平駅付近から群馬県道195号 南蛇井下仁田線へと入る。
なんじゃこりゃ。対向車が来たら絶対にどうしようもない。あまりにも狭い。天狗党が通過した当時の道にアスファルトをかぶせただけだろ、これ。この先下仁田との案内標識があるから抜けられないことはないんだろうけど、とてつもなく不安だ。下仁田町に入るとつづら折れの坂を上っていく。私の車以外の明かりはまったくない。誰もいないのも怖いけど、向こうから誰か来ても怖いし、とにかく早くこの道から抜け出したい。
突然目の前に現れる謎の施設、怖っ!なんでこんな山の中に工場があるんだ?(後日談:正体は甘楽西部環境衛生施設組合清掃センター。施設の性格上、町外れのこの場所にあるのはむしろ当然といえる)
そしてついに来ました小坂々峠。峠を越える小坂坂トンネルは車1台分の幅しかない。でも、ほぼ直線で向こうが見えるので、対向車と鉢合わせだけは避けられそうだ。どきどきしながらトンネルへと突入。どうかなにも起きませんように。いろんな意味で。
無事トンネルを通過。そこから先は拍子抜けするほど直線的な道が続く。人家もあるし、道幅もそんなに狭くはない。あれよあれよという間に国道254号との交差点にぶつかり、下仁田の街へ。

下仁田
ここ下仁田では、幕命を受けた追撃してきた高崎藩兵と天狗党との間で激戦が繰り広げられた。後にいう下仁田戦争である。
下仁田戦争
12月14日(旧暦11月16日)未明、高崎藩の砲撃により戦闘開始。高崎藩は天狗党の進軍ルートに立ちはだかるように下仁田の北西に位置する梅沢峠から侵入、下小坂付近で戦闘となった。当初は高崎藩が優勢だったものの、天狗党の別働隊が至近距離から一斉射撃を加えたことで形勢が逆転、天狗党の勝利に終わった。
この戦闘で高崎藩では36名、天狗党では4名が戦死。高崎藩兵は実戦の経験がほとんどないにも関わらずよく戦ったが、高崎藩の3番隊が戦闘に間に合わなかったことや、援軍として期待していた小幡藩や七日市藩が戦闘に参加しなかったため、退却せざるを得なくなった。
下仁田戦争は、弓矢甲冑による最後の戦いといわれる。
そんなわけで下仁田には、天狗党に関連する数々の史跡がある。天狗党が本陣とした桜井家をはじめ、義列千秋の碑、犠牲となった高崎藩兵の墓、等々。だが、今回はこれらは巡らず、先を急ぐ。だってお墓の類ばっかりで怖いんだもの。夜だし。
下仁田を出発。下仁田中学校の前を通り、国道254号をいったん越えて家が建ち並ぶ道を走る。関口バス停前から国道254号に復帰。猛スピードで突っ込んでくるトラックが多くてなかなか合流できず、ちょっと焦る。再び雨が降り出した。小坂小学校の前を通過し、西牧関所跡へ。ここでいったん国道254号を別れ、本宿の街へと入っていく。街の中に人の姿はない。もちろん車もこない。雨で滲んだ街灯がなかなかいい雰囲気を醸し出している。

本宿
川を渡って再び国道254号へ。野牧寺の手前から旧道へ入る。こちらを通る物好きは私くらいのようだ。三ツ瀬で右折して橋を渡らねばならないところを行き過ぎて、慌てて戻る。市野萱を過ぎると人家がなくなり、道の左側に渓谷、右側に山肌が迫る。雨が強くなってきて、霧も出てきたようだ。すぐ上をバイパスが通っていることはなんとなくわかるだのが、視界には私の車のライト以外の灯は見えない。真っ暗だ。
下仁田トンネルの出口でバイパスと合流するが、すぐにバイパスと別れてまた旧道へ。こんどはバイパスが下になる。しばらくの間はバイパスが見えるが、それもやがて見えなくなる。さあ、ここからは細かいつづら折れの連続だ。霧はだんだんひどくなる。いや、霧というよりも雲の中といったほうが正確なのかもしれない。どっちに曲がっているのかさっぱりわからん。こんなときに限って車の中では「ハッピー☆マテリアル」が鳴り響く。雨降りでも平気…んなわけあるか!
つづら折れが終わると、神津牧場方面へと抜ける群馬県道・長野県道44号 下仁田浅科線との分岐に出る。ここから先はしばらく平坦な道路となるはず…なのだが、霧でさっぱり前が見えないのでひたすら徐行。車の中ではハピ☆マテが続く。なんでそんなに続くかというと、1月放送分から6月放送分までぜんぶ持ってきたからだ。すみませんご先祖様、子孫は立派なダメ人間です。
内山峠を越え、長かった群馬県に別れを告げて長野県へ。いや、ここは天狗党の時代に倣って上州から信州へというべきか。長野県側は落ち葉が多い。濡れた落ち葉を踏んでスリップすると洒落にならんので、ここもやっぱり徐行。群馬県側ほどではないが、こちらもつづら折れがあるので気が抜けない。眼下に内山トンネルの出口が見えるとバイパスと合流。でもすぐにバイパスを離れ、内山大橋の下を通って黒田の集落へ。初谷バス停付近から国道254号に戻る。あとはひたすら下り坂。下るにつれて霧が晴れてきた。後ろから迫るトラックの灯りがだんだん大きくなる。この天気でよくこんなに飛ばせるなあ。
ここは後続をやり過ごすのも兼ねて内山峡に立ち寄ってみようとそれらしい道へ入る。ところが、なんと入口だけで道がない!いや、アスファルトの道が続いているのだが、自然に還りかけていてとても進めそうにない。国道に戻るしかなさそうだが、うかつにバックで国道に戻るとトラックに突っ込まれかねない。さあ困った、どうしたものか。一息ついて車から降りる。周囲を見渡すと同じ目に遭った車が周囲の草をなぎ倒して転回した跡があった。これを使わせてもらおう。ハンドルを切って少しバック、逆にハンドルを切って少し前進、繰り返すこと数回、ようやく転回できた。
国道254号を西へ。平賀まで来ると完全に平地である。中込で小海線を越え、そのまま直進して長野県道144号 本町中込停車場線へ。野沢橋で千曲川を渡る。そのまま道なりに進み、野沢本町の交差点で左折。長野県道145号 相浜本町線で西に向かう。真っ直ぐな道が続く。周囲は田んぼらしいが暗くてよくわからない。前山橋を渡ると道が狭くなり、両側から家々が迫る。このあたりは天狗党が通ったころのままなのかもしれない。前山で右折すべきところを直進してしまい、また道を間違える。
弥生が丘団地のあたりから右手に国道142号が見えてきた。相変わらずトラックが飛ばしている。彼らはどこに向かっているんだろう。下平で県道145号から離れ、国道142号を越えて今岡の集落へ向かう。国道との交差点の信号は感応式だ。この時間に国道を赤信号で止めるのはトラックにとってはいい迷惑だろうなと少しばかり心が痛む。今岡から下県、相浜と抜け、上原南交差点を右折して国道142号へ。またトラックを止めてしまった。ごめんなさい。
本当はここの交差点を直進するのだが、左折したのには理由がある。この先にある道の駅 ほっとぱ〜く・浅科で休憩するためだ。手前のローソン 信州浅科店で食料を買い込み、道の駅へ。結構混んでいる。トラックばかりかと思いきや、意外に普通の車が多い。空いているスペースを探して車を止め、仮眠をとる。
日付が変わって、時刻は10月8日午前零時過ぎ。大子を出発してから11時間弱だ。天狗党が下県を通過したのは旧暦の11月18日(現12月16日)の午後、出発から18日目である。私の進行速度は天狗党のだいたい40倍速。CD-ROMドライブみたいだ。天狗党は戦闘で時間を費やしているので移動に掛けた時間はもっと短いと思われるが、それでも数十倍の速度で移動していることは間違いない。141年間の技術の進歩と、現在の平和に感謝しつつ、おやすみなさい。
目が覚めた。時計を見ると午前3時。出発にはよい時間だ。道の駅を出て、国道142号を少し南に戻り、上原南の交差点で右折。五郎兵衛記念館の前を通り、国道142号を渡って浅科支所(旧浅科村役場)へ向かう。長野県道44号 下仁田浅科線との交差点を左折。八幡神社の前を通り、八幡西交差点から国道142号へ入る。瓜生坂から中山道の旧道へ。坂を下りていくと望月の街だ。当然真っ暗。橋を渡ったところで右折し、佐久市役所 望月支所(旧望月町役場)の前を通って国道142号との交差点に出る。ここは直進し、中山道を茂田井へと向かう。

茂田井
茂田井も真っ暗で、夜の静寂に覆われている。ライトに照らし出される白い塀が道の狭さを教えてくれる。もっとも、こんな時間に対向車が現れるとは思えないので、ゆっくりと昔の宿場町の雰囲気を味わいながら進む。勾配がけっこうきつい。茂田井を抜けると次は芦田だ。その先には中山道の松並木があるが、車両進入禁止とのことで通ることができなかった。ここは国道142号で我慢。
相変わらずトラックが猛スピードで行き交っている。うっかりしているとすぐに追いつかれてしまう。笠取峠を通過。下り坂の途中から国道を離れて旧道へ…おっとまたまた行き過ぎた。いったん車を寄せて止め、タイミングを見計らって転回。トラックに突っ込まれないかドキドキである。
なんとか旧道に復帰。カーブはきつく路面が濡れているのでそれなりに気を遣う必要があるけれど、高速走行を強制されず、マイペースで走れるので気が楽だ。平沢橋で国道142号に出るが、すぐにまた旧道へ。松尾神社の前を通って長久保の街へ入る。濱田屋旅館が建つ交差点を左折。国道142号を横切り、少し高い位置を国道と併走する道を通って四泊の集落へ。ありゃ、迷った。いったん国道142号に抜ける。大和橋を渡ってすぐ青原交差点を右に折れ、旧道で和田を目指す。
和田を出ると国道142号へ。ここから先、車で走るからには国道以外の道はない。前のトラックにくっついて走る。ひたすら直線的な上り坂だ。なんとなく国道17号の苗場 - 二居間を思い出す。中部電力 唐沢発電所を過ぎ、さらに坂を上っていくと、和田峠トンネルを抜ける旧道と新和田トンネルを抜ける新道の分岐点に出た。新道は有料道路なのでトラックはみな旧道を通るのかと思いきや、私以外の車はみな新道へと入っていった。ここから先、しばらくの間はひとりぼっちらしい。
接待という立派な名前の場所を通過。霧が出てきた。標高が上がるにつれてだんだんと濃くなる。どうせ誰もいないだろうと思いきや、向こうからトラックが出現。対向車があるのなら走り方を変えねばならんなあとか思ったが、後にも先にも西餅屋までの対向車はこれだけだった。代わりに出迎えてくれたのが謎の小動物(ネズミ?)とキツネ、タヌキの三頭セット(たぶん)。かわいいなんてそんなこといっている場合じゃねえ!はねてしまうところでしたがな。
和田トンネル入口の信号で止まる。ここって交互通行なのか。トンネルは幅が狭いだけで直線的なので走りやすい。トンネルを抜けるとさらに霧がひどくなった。どうせ誰もいないだろうとゆっくり走る。うねうねと長い坂を下りてゆき、西餅屋で新道と合流。ここから先は後続車もあれば対向車もある。十分注意して走らねば。「長い下り坂につきエンジンブレーキ使用」の看板が目につく。道路脇にはいくつか緊急退避所が設けられている。怖っ!
大樋橋の手前から左に入り、国道の下を縫うように走る。あった、水戸浪人塚だ。怖っ、怖いよ。あたりは真っ暗だし。すぐ上を車が行き交っているのはわかるんだけど、ここは和田嶺合戦で人死にが出ている場所だし、なにか雰囲気が違う。
和田嶺合戦
12月18日(旧暦11月20日)午後、樋橋村に陣取る高島・松本藩と天狗党が交戦を開始。高島・松本藩連合軍は天狗党を三度まで撃退するが、その間に天狗党の別働隊が山を迂回、連合軍の背後から奇襲を掛ける。これをきっかけに連合軍は敗走。戦闘は天狗党の勝利に終わった。
この戦闘で天狗党十数人、高島藩士6人、松本藩士4人が戦死。1869(明治2)年、高島藩は戦死した水戸浪士を慰霊するため、樋橋に浪人塚を建立した。毎年11月に慰霊祭が行なわれている。
水戸浪人塚の写真を撮るのは断念。だって怖いんだもの。そそくさと手を合わせて出発。走り出すとすぐに工場っぽい建物があり、道が分かれている。どちらに進んでよいかわからない。ええいままよ、と右折したら路面が砂利に…工場の敷地内へ迷い込んでしまいました。
気を取り直して引き返し、国道142号に復帰。またまたひたすら下り坂。落合橋の手前で左に入り、集落の中を通過してまた国道へ。このあたりからは普通に家々が立ち並ぶようになってきた。そのまま国道を進むと諏訪大社 下社秋宮の前に出る。昼間は混雑するのだろうが、この時間はひっそりと静まりかえっている。時刻は午前4時半。道の駅 ほっとぱ〜く・浅科を出てからわずか1時間余り。

諏訪
諏訪大社 下社秋宮の前でぐるっと回って諏訪市街へ。まだ交通量は少ないが、朝を迎えつつあるのがわかる。長地交差点で左折し、長野県道14号 下諏訪辰野線へ。さらば中山道。ここから先は伊那道だ。前を新宿行きの高速バスが走っている。しばらく後をついて走り、岡谷駅前で別れる。岡谷からは県道14号を南西へ。県道と中央本線、そして中央自動車道。この3本セットが天竜川の狭い谷間に並ぶ。それにしても、幹線と高速道路、そして一級河川まであるのに、国道だけないとは変な組み合わせ。いや、これを変に思うほうがどうかしているのかも。
平出交差点を右折。辰野駅を右に見ながら直進し、長野県道187号 伊那富辰野停車場線へ。中央本線を跨線橋で越え、少し中央本線に沿って走る。そのまま道なりに走り、中央本線の下をくぐって高畑交差点へ。ここを左折し、国道153号、すなわち三州街道で南下開始。中央自動車道と飯田線がつかず離れずで併走する。雨がぱらつき、路面でのライトが反射して走りにくい。沢上交差点から国道153号の旧道へ入り、松島の街へ。

松島
松島の市街地はきれいに整備されており、街灯が煌々と光を放っている。昔の面影はあまりないのかもしれないが、これはこれで雰囲気が出ているのでよしとする。さらに国道153号を南下。神子柴交差点で右に折れ、長野県道146号 南箕輪沢渡線で伊那の市街地へ。伊那市駅前交差点の信号で止まる。わずかだが周囲が明るくなってきたようだ。伊那を出ると飯田線と並んで走る。下島駅の南で飯田線を越えて国道153号に入るが、またすぐに別れて長野県道221号 宮田沢渡線へ。沢渡駅近くの踏切に引っかかる。沢渡駅には列車が止まっていた。

沢渡
赤木駅の南で再び飯田線を渡る。なんかだんだん道が狭くなってきたような。井ノ久保付近で道を間違えて県道から外れるが、どうみてもこっちのほうが道が広い。そのまま進むとまた県道に戻る。宮田駅前を通過して駒ヶ原交差点を直進、国道153号を越える。うおっ!道狭っ!激しく後悔。素直に国道に出ればよかった。狭い坂道を抜けると国道へ。なにをやっているんだか。飯田線を跨線橋で越え、駒ヶ根市内へ。天狗党の時代でいえば上穂宿だ。市街地を抜けるとそれほど信号も多くなく、走りやすい道が続く。カーブと勾配が多いけど、見通しは悪くない、道幅もそこそこ広い。これで天気がよければ文句はないのだけれど。
与田切川交差点で右折。長野県道15号 飯島飯田線へと入る。つづら折れを上ると広くて直線的な道に出た。どこかの高原といった感じの場所である。でも周囲は霧に覆われてよく見えない。柏木交差点を敢えて直進し、旧道らしき道を通る。七久保小学校を越えてしばらく走ると県道15号へ。これが三州街道らしい。柏木からずっと下っているような気がする。上片桐で車を止め、外の空気を吸いに車を降りる。

上片桐
時刻はちょうど朝6時。もっと明るくてもよいはずだが、霧が濃いため薄暗い。中央自動車道の松川ICを過ぎると、ほぼ中央自動車道に並行するように進む。中央自動車道の交通量はまだそれほど多くないようだ。世間一般には今日から3連休なので、もう少し経ったら渋滞が始まるのだろうが、いまのところその兆しはない。もちろん、私が走っている県道15号は、いまのところ私以外の車を見かけない。この道は天狗党が通過した道とほぼ同じはずだ。当時、沿道の村人達は天狗党を恐れて身を隠していたという。たぶん、こんな感じで自分達の他には誰もいなかったのであろう。彼らは集団で私は一人という違いはあるけど。
牛牧で天狗党の通過記念碑を見る。「元治元甲子年十一月二十四日 水戸浪士この道を通る」とある。やはりこの道が天狗党が通った道だったのか。実はちょっぴり自信がなかったので、この碑を見て一安心。あとは飯田に向けて一直線。

天狗党通過記念碑
南大島川を渡ると飯田市に入る。黒田あたりから家が増えてきた。S字を描くように坂を下って野底橋を渡る。大門交差点で右折。大宮諏訪神社の前を通り、飯田高羽合同庁舎の交差点でさらに右折。飯田文化会館を左に見ながら中央自動車道の下をくぐり、市営今宮球場の前へ。天狗党はここでも間道への迂回を余儀なくされ、今宮球場の隣にある郊戸八幡宮(当時の名称は郊戸神社)で休憩を取ったという。私もそれに倣って一休み。球場の脇から王竜寺側沿いに上っていったところに駐車場があったので、そこに車を止める。

飯田
雲が切れて日が差してきた。犬を散歩させている人がいる。ここまでの霧が嘘のように晴れ、飯田市内はよい天気になりそうだ。少々休憩を取ったところで車を出す。
郊戸八幡宮から坂道を下って飯田市内へ突入。市街地をぐるぐる回って、松川橋の手前で国道256号に出ることができた。そのまま国道を南下。飯田IC付近から再び国道153号となる。茂都計橋を渡ってすぐのセブンイレブン 飯田切石店で朝食を調達。店内はそれなりに客がおり、出勤途中に立ち寄っていると思われる人がちらほら見受けられる。本格的な朝の始まりだ。近くの歩道橋に上ってみると、朝日を浴びた山々の緑がとてもきれいだ。
それにしても、山から昇る朝日というのは何度見ても違和感がある。私はずっと太平洋沿いで育ってきたので、どうしても太陽は海から昇るもの、百歩譲って平地から昇るものと思ってしまうのだ。常陸国の出身者が多い天狗党の面々もそうだっただろう。ご先祖様は現在の日立市出身なので、なおさらそう思ったに違いない。歩道橋からの景色をひととおり楽しんだところで、国道153号を南へ。車がだいぶ増えてきたが、流れは速い。あっという間に駒場に到着。駒場東交差点から街の中へと入る。駒場は阿知川に複数の川が流れ込む合流点付近に開けた街だ。周囲は山々に囲まれ、平地はほとんどない。

駒場
天狗党はこのまま三州街道を三河方面へと進む予定であったが、諸般の都合により中山道方面へと向かうことになった。現在、駒場から中山道方面へと車で抜けるには、このまま国道153号を真っ直ぐ進み、昼神温泉郷から国道256号経由で妻籠へ出るしかない。しかし、天狗党の時代には、梨子野峠を抜ける道が一般的だったそうである。そこで、ここは梨子野峠を目指してみることにした。
国道153号を飯田方面へと戻り、七久里バス停付近から左へ。本当に通れるのか疑いたくなるような道だが、行き止まりになることはなく、中央自動車道の下を通って南平地区へと出る。しかし、ここで見事に迷子になり、浄玄寺の前をいったりきたりする。なんとかそれっぽい道に突入するものの、とんでもなく狭い道だ。対向車が来たらおしまいなのは間違いない。入り口付近には家が数軒建っているが、それを過ぎたとたんに林道のような道になる。それでも路面は舗装されているし、なによりも電柱がある。なんとか進めそうなので行けるところまで行ってみることにする。
ガードレールもしっかりと設置されているし、路肩が崩落しているようなこともない。ただ狭いだけなのが気がかりだ。道は思ったよりも直線的だが、そのぶん勾配がきつい。ギアはセカンドを維持したままだ。しばらく進むと、なんと人家がある。どおりで電柱が設置されているわけだ。これならもう少し進めそうだと人家の先のカーブを曲がってみると…

青木
舗装路はここで終わり、この先は未舗装となる。未舗装といえば聞こえはいいが、梨子野峠に続く道は完全に歩道であり、左側の昼神温泉郷へと続く道もこの先どうなるか怪しい。一応轍はあるものの、あっという間に通行不能になる可能性が高い。そこで、引き返せるうちに引き返すことにした。
ここは青木という集落らしい。標高はおよそ860m、筑波山と同じくらいの高さにいるはずだが、もっと高いところにいるような気分だ。雨上がりということもあってか、ひときわ空気がきれいな気がする。少し周囲を散策した後、車をUターンさせ来た道を戻っていく。どうか対向車が来ませんように。
祈りが天に通じたのか、無事に下までたどり着いた。しかし、国道153号への合流で苦しむ。右折で合流しなければならないのだが、このあたりは信号がほとんどなく、車の流れが速いうえになかなか途切れないので、合流のタイミングが掴めない。待つこと数分、ようやく国道へ。
さっき通った駒場を越え、阿知川大橋の手前から国道256号へ。昼神温泉郷を通過。川裾バス停付近で左折し、下清内路の集落内へ。路面は濡れている。空には雲がかかり、飯田市内や青木峠ほど日が差していない。山ひとつ越えると天気が変わるのだろうか。山がちな土地には慣れてないのでなんとも不思議である。

下清内路
下清内路からは天狗党のルートに復帰。国道256号を北西へ。上清内路を過ぎ、清内路トンネルへ突入。できればトンネルを使わずに旧道で清内路峠を越えたかったのだが、ここも旧道の入り口はゲートが閉じていて通行不可だった。清内路トンネルの開通は1999年、数年前であれば旧道を通れただろうに残念。トンネルの長さはおよそ1.6km、ほぼ直線である。おかげであっという間に木曽側に出た。広瀬で長野県道8号 飯田南木曽線、すなわち大平街道と合流。ここから先は国道から離れ、集落の間を縫うように走る旧道を使うことにした。
広瀬から蘭まで、蘭川に沿って集落が続く。蘭を過ぎると国道256号に入る。ここからしばらく人家はない。太高取で右に折れる道に入り、国道を離れる。この道で妻籠に行けると思いきや、なんかどんどん山の中に入っていくような気が。しかも道が危なっかしくなってくるし。こりゃミスったかなと思い始めたころ、左折できる道があったので曲がってみる。すると妻籠宿の外れに出ることができた。

妻籠
左折して妻籠から出ようとすると、車両進入禁止の看板があって通れない。変な道を通ってきたため、進入禁止区域の内側に出てしまったようだ。そこで反対側に曲がって国道256号へ。
妻籠からはまた中山道を進むことになる。大妻橋、神明橋と渡って岐阜県道・長野県道7号 中津川南木曽線へ。男だる川に沿って進む。男だる川、変な名前。「兄貴ィ、もう、ダメだぁ〜」というフレーズが思い浮かぶ。それはさておき、県道7号は中山道とは微妙にルートが異なり、旧中山道の一部区間は歩道として整備されている。当然車は通れない。そのぶん車用に整備されているはずの県道7号は、どういうわけかカーブが多く運転しにくい。地図で見る限りだと中山道のほうがカーブは少ないようにも見える。もっとも、勾配を考慮するとどっちもどっちなのかもしれないが。
馬籠峠を越え、岐阜県に入る。これで美濃国に入ったといいたいところだが、ここは2005年2月12日までは長野県木曽郡南木曽町と長野県木曽郡山口村の境だった。翌2月13日、山口村が岐阜県中津川市へと越県合併したことで、馬籠峠が県境となったのだ。信濃と美濃の国境はもう少し先だ。
岐阜県道となった県道7号を下っていくと馬籠宿の入口に到着。しかし、馬籠宿も車両進入禁止のため、そのまま県道で迂回して宿の反対側へ。そこで車を止めて休憩。ついでに写真を撮る。少し雨がぱらつき、天気はよくない。飯田だけ天気がよかったのは何だったんだろう。時刻は午前8時半。観光客の姿がちらほらと見え始めた。

馬籠
馬籠から旧中山道を進む。ここは県道ですらなく、道は広いとはいい難い。時折、中山道を散策している人々の姿が見受けられる。新茶屋から先、旧中山道の十曲峠を越える石畳は車で通行できないので、大久手方面へと迂回する。このあたりが以前の県境、すなわち信濃と美濃の国境である。くねくねとカーブを曲がりながら山を下りると落合宿だ。まだ周囲に山々が見えるものの、これまでのような山道とは雰囲気が違うことが実感でき、最難関の山道は越えたとの思いがする。後世に生きる私は、天狗党がこの後さらなる山越えに挑んだことを知っているが、自分達の運命を知らない天狗党の面々は、これで山道とはおさらばだと思ったことだろう。
夜明け大橋を渡ると落合宿に入る。県道7号をほんの少し南側へと進み、木曽路口バス停付近のY字路を入って本陣跡前へ。そこから落合小学校方面に左折し、道なりに進む。与板交差点から国道19号へ。このへんの旧中山道はどうなっているのかよくわからないので、おとなしく国道を進む。子野川を渡って地蔵堂交差点を右折、中津川市街へと下りていく。うーん、ここはどこでしょう。中津川だというのはわかるけど、どこの通りを走っているのかよくわからん。気がつくと中津川駅前に出ていた。そのまま中央本線沿い走っていくと…おっと、中央本線をくぐってしまった。こりゃいかん。引き返して適当に走っているうちに、岐阜県道6号 中津川山口線に出た。新中津川大橋で中津川を渡る。駒場町交差点で県道から離れ、北西方向へ。道なりに走っていくと会所沢交差点で国道19号に合流。こうしてよくわからないうちに中津川を抜けた。
旭交差点で国道19号を離れ、右へと入っていく。坂を下り終えると中央本線と並んで走る。藪下バス停の先からY字路を左に入るつもりが、ついうっかり見逃してそのまま直進。戻るのも面倒なのでそのまま進む。美乃坂本駅前を通過し、岐阜県道410号 苗木恵那線へ。野田川を渡ると本来予定していた道と合流する。まあこれはこれでよいか。なんの変哲もない田舎道が続くが、これが中山道らしい。恵那峡橋で中央自動車道を越え、県道から外れて恵那市街へ。天狗党の時代でいえば大井宿である。

大井
本陣の裏を通り、大井橋で阿木川を渡って街の中心部へ。一方通行を避けるように街の中を抜け、長島町長野から国道19号へ入る。大井から次の大久手までは、旧中山道は東海自然歩道として整備されている。逆にいえば車は通れないわけで、ここは国道を進む。釜戸駅近くから岐阜県道65号 恵那御嵩線へと右折…って、また見逃した!その先の信号で左折し、適当なところでUターン。再び信号から国道19号へと出て、こんどは間違いなく県道65号へと入る。これが本当に主要地方道なんだろうか、と不安を抱かせるような急勾配とつづら折れが続く。ついでに雨が降り始め、強まる雨脚がよけいに不安をかき立てる。ところが、坂が終わったあたりで突然道路が開け、立派な道となった。この道を突き当たりまで走り、右折すると大久手だ。

大久手
適当な広場を見つけてUターン。次の細久手を目指す。しかし、しばらく進むと工事中につき迂回してくださいとの案内が出ており、先に進めない。そこで、高根山方面から細久手へと向かうことにする。だが、迂回路であるはずのこの道も工事中で迂回してくださいとのこと。どうすればよいっちゅーねん。しかも、迂回してくださいとはあるものの、どのように迂回すればよいのかまでは書いておらず、不親切極まりない。
このあたりは道案内も不親切で、道が分岐するところにはどこの集落へと向かうのかを示す標識は立っているのだが、街全体を俯瞰するような案内がなく、一見さんにはさっぱりである。さらに、どの道も広くはなく、場所によっては離合困難な箇所もある。なんか同じようなところをぐるぐる回っているようでさっぱり先に進めない。ガソリンの残量も心許なくなってきた。
落ち着いて経路を調べてみると、岐阜県道383号 日吉釜戸線から岐阜県道352号 大西瑞浪線を経由するのがよいらしい。これってめちゃくちゃ遠回りやん。ガソリン大丈夫かなあと一抹の不安を覚えつつも、このルートで細久手を目指す。

細久手
大久手出発は9時50分、細久手到着は10時30分。直線だとわずか5km程度しかないのだが、40分も山の中をさまよっていたことになる。これも工事中の迂回路がきっちりと示されていなかったためだと思うと腹立たしい。地元の人間にとってはあの程度の案内で十分なのかもしれないが、中山道は立派な観光資源で土地に不案内な人間が訪れる場所のはずだ。だからこそ、中山道が工事中で通れないということと、大久手 - 細久手間の迂回路をきっちり示しておいてほしかった。
細久手でまたUターン。花の木ゴルフクラブの中を通って津橋へ。細久手 - 津橋間も本来の旧中山道は車で通れないので迂回する形になる。津橋から前沢、謡坂を経て、中切へと向かう。天狗党がこの付近を進んだとき、数名の逃亡者が出たという。次々にちょっとした分かれ道があり、すぐに山陰に消えるので逃げるにはもってこいの場所に思える。平地に入ってこれまでの緊張感が失せたというのも影響したのかもしれない。
中切から国道21号へ。西に進むと御嵩宿だ。国道を離れ、御嵩駅前と出る。

御嵩
御嵩小学校前から国道21号へ。国道沿いのガソリンスタンドで給油。時刻は午前11時ちょうど。道の駅 ほっとぱ〜く・浅科を出てから8時間弱といったころか。ここからはしばらく国道沿いだ。伏見を過ぎ、可児市に入ってすぐ国道21号 可児御嵩バイパスへと入る。今渡東住吉交差点で右折。交差点は大渋滞だ。本当はその前の加茂公設地方卸売市場のところから右に入るつもりだったのだが、流れが速くて行き過ぎた。すぐ次の信号を左折し、太田橋へ。木曽川を渡る。もちろん、天狗党の通過時には橋はなく、今渡の渡し場から船で対岸の太田宿へと向かった。なぜあっさり船が使えたのかというと、尾張藩が気を利かせて渡し場を自由に使えるようにしておいたのだそうだ。

太田橋
加茂総合庁舎の前を通り、神明堂交差点から太田本町方面へ左折する。あまり広いとはいえない道の両脇に古い家並みが並ぶ。ほんのわずかだがかつての雰囲気が残っているような気がする。太田本町を抜け、国道21号と合流しようとするが、失敗して国道41号へ。中濃大橋で木曽川を渡り、可児市内へと逆戻り。そこで、橋を渡ってすぐの交差点を左折し、さらに適当な路地に入って引き返す。再び中濃大橋を渡って、こんどこそ国道21号へ。
天狗党は太田からうとう峠を越え、次の鵜沼宿へと向かった。しかし、現在ではうとう峠はほぼ廃道となり、車での通行はできない。ここは国道21号で鵜沼へと向かう。ところが、鵜沼宝積寺町のあたりから大渋滞が始まる。事故か工事なのではないかと思われるほど流れが悪い。一部の車は高山本線の踏切を渡り、新鵜沼台の団地へと入っていく。後にして思えば、私もこれに続けばよかったのだろうが、このときはそんなことは思いもよらなかった。鵜沼跨線橋を越えても渋滞が続く。そこから大きくカーブを描くようにして鵜沼市街へ。山崎町の交差点を越えたとたんに渋滞が解消。なんだ、たったひとつの信号のために渋滞していたのか。

鵜沼
鵜沼では旧道に入り損ねて、そのまま国道21号を進む。再び高山本線を越え、各務ヶ原駅前を通過。三ツ池町交差点を右折し、岐阜県道17号 江南関線に入る。東島池北交差点を直進するところを思わず左折してしまい、東海中央病院の前を通って県道17号に復帰。なんか進路の選択ミスが増えてきたような。疲れているのかもしれない。坂井町交差点で左折し、岐阜県道205号 長森各務原線へ。さらに大島町交差点で右折し、岐阜県道93号 川島三輪線へ。そのまま北上を続けると岩田交差点で国道156号にぶつかるので、ここを右折し国道へ入る。このあたりから雨が降り始め、瞬く間に大雨に。先が思いやられる。
雨のせいもあるのか、道路は混雑気味だ。下芥見から旧名鉄美濃町線の踏切を渡ろうとするが、またもや行き過ぎてしまった。そこで、次の交差点で右折して引き返す。でも、渋滞のせいでとても曲がれそうにない。そこで、信号がある岩田交差点まで引き返し、そこで右折。踏切を渡ってすぐにまた右折し、名鉄美濃町線跡を右に見ながら走る。道はやや狭いが、幸か不幸か大型車がすぐ前を走っており、対向車がこの大型車とすれ違うため路肩に寄せてくれるので、難なく走ることができた。
上芥見交差点を左折し、再び岐阜県道93号 川島三輪線へ。藍川橋で長良川を渡る。そのまま北上を続け、福富の集落へ…おっと、手前の信号で曲がってしまった。田んぼの中を適当に進んで福富の集落へと入っていく。久々に道狭っ!完全な生活道路である。他県ナンバーの車がうろうろしていると怪しいことこのうえない。それでもなんとか石原二丁目交差点までたどり着くことができた。ここからは岐阜県道79号 関本巣線を西へ。そういえばあれほど強かった雨がいつのまにか止んでいる。
太郎丸の集落を抜ける。岐阜女子大学の前を通過。県道よりもひとつ北の道が昔からの道らしいが、面倒なのでそのまま県道を進む。天王交差点で国道256号に出るので、ここを右折。あれ?国道256号って清内路で走っていた道ではないか。あれからものすごく進んだような気になっていたが、国道番号を見たとたんにぜんぜん進んでいないような気分になってきた。国道256号を北上。東深瀬高校北の交差点で右折し、東深瀬へ。

東深瀬
東深瀬から国道256号に出て、富岡小学校前の交差点まで戻る。ここを右折し、山県市役所の裏手から再び県道79号へ。両側から山が迫る。南側の山の向こうは岐阜の街だ。各務原で進路を変えてから、ずっと岐阜市街を迂回していることになる。小倉四日市交差点を左折して岐阜県道91号 岐阜美山線へ。川に沿ってゆるいカーブが続く田舎道である。岐阜の中心地からそれほど離れていないはずなのだが、山の陰になって街が見えないせいか、それほど街が近いという印象は受けない。
安食を過ぎ、石谷三丁目交差点を左折。宇田坂トンネルを抜ける。本当はトンネルではなく峠道を越えたかったのだが、入り口がわからなかった。もしかすると車では通行できないのかもしれない。トンネルを抜けると岐阜刑務所の横を通って岐阜県道167号 金原上西郷線へ。これを南に向かい、上西郷犬塚の交差点を右折。岐阜県道78号 岐阜大野線へと入る。犬塚橋を渡ってすぐ、キグナス石油 西郷SSを過ぎたY字路ではあえて旧道へと入ってみる。
県道79号を西に進むと、国道157号へとぶつかる。ここを左折して南へと向かい、次の信号で右折。岐阜県道156号 曽井中島美江寺大垣線を進む。どうでもいいが長い名前の県道だ。樽見鉄道 樽見線を渡り、南へと進む。この道、一応県道らしいのだがとてもそうは見えない。ぱっと見はただの農道である。基本的にはほぼ直線なのだが、集落内で微妙にクランクとなっていたりして走りにくい。でもまあ、これが昔からある道の証拠なのかもしれない。途中、天狗党が小休止したという長屋の集落で車を止め、私も少し休憩する。

長屋
芥見付近で降っていた雨はすっかりやんだ。天狗党がこの付近を通過した日は大雨で、大変難儀したという。しかし、その雨が逆に彼らを護ることにもなった。彦根藩、大垣藩の藩兵たちは、天狗党の行方が掴めず雨の中を右往左往し、意気があがらなかったという。幸いなことに私は誰に追われているわけでもない。雨は降っていないほうがありがたい。
長屋から県道156号を南下していくと、早野で国道303号とぶつかる。ここを右折して国道へ入り、西へ向かう。藪側橋で根尾川を渡り、道なりに国道を進むと揖斐の街だ。
越前への進路変更
揖斐に宿泊した天狗党は、今後についての軍議を開いた。このまま関ヶ原方面へと向かうと彦根藩や大垣藩とぶつかることになる。しかし、この頃には天狗党の士気は落ち、武田耕雲斎の指導力は著しく低下、軍師 山国兵衛は若手に嫌われているという散々な状況にあった。ここまで連戦連勝の天狗党といえども、関ヶ原突破は困難だった。
そこで、武田耕雲斎は尾張藩の許へ、山国兵衛は八草峠経由で琵琶湖岸へと出る案を提示したが、もはや彼らの言葉には影響力はなく、あっさりと却下された。結局、揖斐で浪居中だった棚橋衡平の勧めに従い、越前へと向かうことが藤田小四郎を中心とする若手幹部により決められた。
越前への道を決めた理由のひとつに、田丸稲之衛門の蝦夷開拓案があった。越前大野藩の許で春まで待ち、慶喜の許しを得て蝦夷へ渡ろうというものである。当時、大野藩は北蝦夷(現在の樺太)開拓を推し進めていた。また、蝦夷開拓は光圀以来の水戸藩の国是であり、先代藩主 徳川斉昭も国防上の理由から開拓に熱心であった。
「烈公」として崇める斉昭の遺志を受け継いでいると自負する彼らにとって、蝦夷という言葉は魅力的だったのである。
天狗党に倣ったわけではないが、私も揖斐でこの先の道を再確認する。トミダヤ 揖斐川店の駐車場に車を止め、ルートを頭にたたき込む。

揖斐
揖斐を離れ、岐阜県道251号 揖斐川谷汲山線を北西へ。坂道を上り、小野坂トンネルを抜けて少し走ると谷汲に出る。岐阜県道40号 山東本巣線との交差点を右折し、本巣方面へ。すなわち岐阜方面へと戻ることになる。廃止となった名鉄谷汲線 谷汲駅があった。そのまま谷汲山大橋で根尾川を渡り、国道157号へと入る。
国道157号。マニアの間では「酷道」として有名である。それだけに覚悟を決めてきたのだが、道路はよく整備された2車線道路でとても走りやすい。ちょっと拍子抜けだ。樽見鉄道を左に見ながら走る。神海、金原とあっという間に通過。日当駅を過ぎたあたりから谷が深くなり、いよいよ山越えという雰囲気がしてくる。高尾橋で根尾川を渡り、対岸の岐阜県道255号 根尾谷汲大野線へ。金原ダムを右手に見ながら北上。根尾谷断層を越える。開運橋で再び根尾川を渡り、国道157号へ。そのまま北上を続けると樽見市街へと入る…はずなのがまたもや行き過ぎ、根尾小学校の前からぐるっと回って樽見駅前へ。樽見駅の駐車場に車を止め、休憩。ついでに樽見駅のホームに出てみるが、列車は入線しておらず、ホームは無人だった。

樽見
樽見から先は2車線が続く。これが本当に酷道になるのだろうか、という気がしてきたころ、センターラインが消えた。それでもすれ違いが困難、とかいうことはなく、普通の田舎道だ。ぽつぽつと集落があり、あまり山奥を走っているという実感が湧かない。長峰、長島を過ぎ、根尾西谷川を渡って能郷の集落へ。

能郷
能郷では曲がりくねった坂の周囲に家々が立ち並ぶ。集落の外れから坂道が急になり、さあいよいよ峠越えだ。ここから先は気合いを入れて進まねば、とハンドルを握る手に力が入る。しかし…

国道157号のゲート
ゲートが閉まっており先には進めませんでした。しかもこの写真を撮った直後にデジカメのバッテリーが切れ、撮影不能に。ついていないにも程がある。とほほ。
国道157号が通行不能という現実は、私に精神的ダメージを与えるには十分だった。天狗党は揖斐で軍令を改め、「もし脱隊したい者があれば申し出ること。決して抑留はしない」という条項を追加したというが、私もここであきらめて帰ろうかという気分になった。
天狗党が越えた蠅帽子峠は現在ほぼ廃道となり、国道157号はその西に位置する温見峠を越える。そのため、もともとこの区間は本来の天狗党のルートから外れるという妥協を図らざるを得なかったのだが、その妥協さえも許されないとなると、どうしていいものやら途方に暮れてしまった。
時刻はちょうど午後3時。いまから高速道路を使って帰れば、夜中には帰り着くだろう。そんなことを思いながら国道157号を引き返す。私の他に走っている車はほとんどいない。妙に空いているとは思っていたが、行き止まりなら当たり前だよな。そうこうしているうちに、ある考えがひらめいた。
そうだ、東海北陸自動車道経由で、九頭竜湖側から行けばいいじゃん!
九頭竜湖経由のルートには大きなメリットがある。国道157号だと蠅帽子峠越えのルートの途中にある秋生、本戸、黒当戸といった集落をスルーすることになってしまうのだが、九頭竜湖の南岸から福井県道230号 大谷秋生大野線に入ると、秋生で蠅帽子峠から下りてきた道と合流することになり、これらの集落を通ることができるのだ。
これはこれで天狗党の通過ルートをできる限り忠実にたどるという本来の目的に合っている。俄然やる気が出てきた。アクセルを踏む足に力が入る。天狗党は蝦夷開拓をきっかけに一時的にせよ士気を取り戻したが、私は東海北陸自動車道の存在でやる気を取り戻した。似たようなものだということにしておく。
樽見まで戻り、樽見駅に車を止めて作戦を練り直す。あまり時間がない。できれば暗くなる前に大野まで行きたいが、さすがに無理か。最寄りの東海北陸自動車道のICは美濃ICだ。樽見から国道418号をひたすら進めばよいらしい。そうとわかれば早速出発。
国道418号を南西へ。岐阜方面へと戻っているので微妙な気分。本当は北西方面へ向かうべきなのだが、いまひとつ道が狭そうだし、不安なのでなるべく確実な道を進む。どういうわけか向こうからダンプが続けてやってきて、すれ違いで何度も苦労することになった。関市に入り、道案内に従って高野交差点を左折。岐阜県道94号 岐阜美濃線で美濃ICへ向かう。ファミリーマート 美濃大矢田店で食料を調達。この後、大野市内までおそらく食料調達は不可能だろう。
美濃ICから東海北陸自動車道へ。利用するのは初めてだ。全線対面通行なのかと思っていたが、美並ICまでは4車線化が進んでいた。しかし、美並ICから北は対面通行である。やだなあ、対面通行は苦手だし。追い越し可能なところでできるだけ道を譲りながら白鳥ICへ。そのまま油坂峠道路へ入る。そういえば、数年前にも油坂峠を通ったっけな。あのときは旧道経由で方向も逆だったけど、なんだか懐かしい。
4本のトンネルを通過。最後の越美トンネルを抜けると福井県、すなわち越前だ。天狗党とは異なる形での越美国境越えとはなったが、まあそれもよいだろう。さて、出口で通行料金を払おうかとスピードを落とすと、料金所には人影がない。いつの間にやら無料開放されていたらしい。九頭竜川に沿って国道158号を進む。やがて九頭竜湖が見えてきた。下半原隧道を抜けてすぐに左折し、福井県道230号 大谷秋生大野線へ。九頭竜湖を渡る。もう夕闇が迫る時間だというのに山の中へと消えていく道へ入っていく姿は、端から見たら危ない人に見えるのかもしれない。
ここから先、大野市街まではなにかトラブルがあったらおしまいだ。確認していたわけではないが、おそらく間違いないだろう。覚悟を決めて突入する。九頭竜湖が見えている間はよく整備された道で、決して走りづらいわけではない。途中、2台ほど対向車とすれ違った。向こうから車が来るからには行き止まりはないだろうと安心するとともに、離合困難な区間があったらどうしようと不安にもなる。周囲は急速に暗くなりつつある。
ところどころ法面が崩れ、石が転がっている。崖崩れが怖い。迂闊に踏むとパンクしそうだ。少しスピードをゆるめ、注意しながら進む。途中、大谷隧道というトンネルがある。時間帯が時間帯だけに不気味だ。この付近から九頭竜湖を離れ、対岸の国道158号は見えなくなる。伊勢川橋を渡ると、本格的に山の中へと入っていく。どんどん坂を上っていくのがわかる。ところどころに路線番号標識が立っており、道を外れていないことだけはわかる。やがて直線的だった道が終わり、つづら折れが始まる。伊勢峠だ。
周囲はすっかり暗くなった。車のライトだけが頼りである。途中、ガードレールがない直角カーブから転落しそうになり、冷や冷やする。こんなときも車内はハッピー☆マテリアル。いやだって怖いんだもの、景気づけにはちょうどいい。伊勢峠を越えると大野市だ。もっとも、なにかが変わるというわけではなく、かえって道がひどくなったような気がする。大野市側の下りもつづら折れが続く。途中、なぜかミニバンが路肩に止まっていた。怖っ!一目散に逃げたいところだが、道が道だけにスピードは出せない。バックミラーを見ないようにしてその場を立ち去る。
やがて道がほぼ直線になった。それでも突然カーブがあるかもしれないと思い、なるべく慎重に進む。道の左側は笹生川の深い谷だ。落ちたらただでは済まない。そしてついに、路線場号標識の下に「上秋生」の文字が現れた。そこに車を止めると、左へと入っていく道があった。これが蠅帽子峠に続く道なのだろうか。

上秋生
ここで天狗党のルートに復帰したようだ。ただし、かつての上秋生の集落は現在では笹生川貯水池の底であり、天狗党が通った道も水の中であろう。したがってぴったり同じではないのだが、それでもなんだか嬉しくなる。上秋生から県道230号を西へと進む。暗いながらも笹生川の対岸が遠くなったのがわかる。このあたりから笹生川貯水池だ。
貯水池の上流付近ではほぼ直線だった道も、下流が近づくにつれてきついカーブが連続するようになる。そんなカーブを抜けると、突然灯りがついた建物が見えた。笹生川ダムである。車が止まっていたので、常駐している人がいるのだろう。笹生川ダムからはくねくねとカーブを描きながら坂を下りていく。途中、本戸、黒当戸を通過。路線場号標識にそう書いてあるからわかるだけだが、集落があるわけではない。ただ夜の闇と静寂があたりを覆っている…といいたいところだが、まだ午後6時半だ。現代の我々の感覚からは夜とは言い難い。しかし、天狗党の時代の午後6時半とはここまで真っ暗で静かだったのか、と少し物思いにふけることができた。

黒当戸
笹生川に沿ってさらに下りていくと、笹川橋を渡って中島へと入る。国道157号を走る車のライトが見える…って、え?なんで温見峠に向かう車がいるの?だって能郷には抜けられないんでしょ?しかもこんな暗闇の中を温見峠に向かうとは。地元の人なのかな。謎。
大野藩の焦土作戦
天狗党が蠅帽子峠を越えて進んでくるのを知った大野藩は、天狗党の進行を妨害するため、大野への道筋に点在する上秋生や下秋生、中島、上笹又、下笹又の集落を焼き払った。これは、参勤交代で藩主が不在の上に、兵力も明らかに劣る大野藩にとって苦肉の策であった。
しかし、上秋生や下秋生が焼き払われたのは既に天狗党が通過した後だったり、村人にはわずかな見舞金が支払われただけだったりと、大野藩の不手際が目立つ結果に終わった。これに対し、天狗党はおとなしく通過していったため、真冬に家を失った村人たちの怒りは藩に向けられることになった。大野藩の役人が村人に殺される事件までおきたという。
中島から再び国道157号へ。上笹又を通過。ってこれも路線場号標識の下にそう書いてあるからわかるわけで、現在は集落があるわけではない。笹又トンネルを抜け、下笹又に入る。ここも上笹又と同様、現在はなにもない。さて、天狗党はここから笹又峠を越えて木本村へと向かったのだが、笹又峠も現在は廃道である。しかも、国土地理院発行の地図にさえ、下笹又からのルートは記載されていない。もうこうなると徒歩ですら通行は無理なのかもしれない。ヘタレな子孫の私は、国道157号を進む。というかほかに道がないし。麻那姫湖を過ぎ、トンネルをふたつ抜けるとようやく平地に出る。遠くには大野市街、天狗党風にいえば越前大野の城下町の灯が見える。
先を急ぐのあれば、大野の街には入らずに木本へと向かうところであるが、天狗党西上における最大の難関は突破したので、あとはそれほど急ぐこともない。そう考え、大野市で休憩を兼ねて夕飯をとることにした。そのまま国道157号で大野の中心部へと向かう。途中、街外れのガソリンスタンドで給油。ここで入れておけば、最終目的地の敦賀まで確実に保つだろう。
で、夕飯。国道157号沿いのすき屋 157号大野店にて豚丼サラダセット大盛を食す。え?せっかくここまで来たのだからもっと気の利いたものを食べろって?だって面倒くさかったんだもの。
すき屋で食事を済ませた後、近くのファミリーマート 大野中挾店で食料を調達。夜間走行への準備を備え、午後8時前に出発。国道157号を木本方面へと戻る。大野の街から木本までの間は田んぼが続く。田んぼの中で国道から離れ、木本へ。どこが道なのかさっぱりわからん。

木本
木本から福井県道34号 松ケ谷宝慶寺大野線へ。直線的な坂をぐんぐん上っていく。道は2車線で走りやすいが、私以外の車は見かけない。もっと走りにくい山道だと思っていただけに意外ではあるが、逆にまったく対向車がないのでかえって不気味ではある。もっとも、対向車がないのにはきちんと理由があったのだが。
突然、2車線が終わり、清滝川を渡る橋に出る。橋の手前の看板から、この橋を渡ればすぐに宝慶寺だということがわかる。橋を渡ってからの道は狭く、さらに急カーブと急勾配のコンビネーションである。ここまでの2車線が嘘のようだ。ここからは慎重に進まねば、と速度を落とす。そして…あれ、行き止まりだ。というか宝慶寺じゃん。しまった、この手前で左に入ればよかったのか。
お寺の前で転回し、こんどこそ県道34号へ。曲がってすぐのところに工事中との案内があったが、閉鎖されていないようなので先へ進む。ところどころ工事中で未舗装の区間がある。道が狭いわけではないのだが、泥でスリップすると転落するおそれがあるので、できるだけ速度を落としゆっくり走る。やがてカーブも減り、道が下り勾配に転じる。なんだ、ぜんぜんたいしたことないじゃん、とにかく一歩、そろりと二歩目、三歩進んでダダッと…うぎゃー、道の左半分が崩落してるじゃねーか!
やっぱりあまりスピードを出さないほうがいいなあ、でも後は下るだけだし、もうこれ以上酷いことにはならないだろうと思っていたら、わずか数分後にもっととんでもない事態が発生した。なんと、道が、道が…ない!えっ、と思ったときには道を覆い尽くす土砂が目の前に迫っていた。なんだよこれ、宝慶寺ではなんの予告もなかったのにどういうこと?
疑問を抱くと同時に、非常にまずいことに気がついた。しまった、この道幅では転回できん!あちゃ、やっちまった、面倒だけどバックで戻るしかない。ギアをバックに入れ、クラッチをつなぐ…あああ、勾配がきつすぎて半クラッチだと前進しちゃうよ。きゃー助けて。とりあえず土砂の前からは待避。車の幅を確保できるところまで戻り、転回開始。切り返しを行うこと数回、坂がきついためクラッチをつなぎ損ねるととんでもないことになる。なんとか方向転換に成功し、来た道を戻る。また未舗装区間を通るのかと思うと気が滅入るが、ほかに道はないしどうしようもない。
対向車がまったくこないのはこの土砂崩れのせいだったのだ。またもや通行不能とは。なぜここまで連戦連敗なんだか。それにしてもこの先どうしよう。迂回ルートを考えなければ。宝慶寺から木本までの間、ぼんやりと考えながら車を走らせる。国道476号が無難だろうとだいたいの考えはまとまっているのだが、どうやったら県道34号と合流できるのかいまひとつ自信がない。そこで、木本からさらに県道34号を進んだ阿難祖領家の田んぼの中に車を止め、ルートを検討する。
うむ、どうやら国道476号だけで行けるらしい。そうと決まれば早速出発。国道476号は走ったことがあるので、走り勝手はだいたい心得ているし、なんとかなるだろう。いったん国道158号に出て、犬山から国道476号へ。大型車通行不能の表示がある。なにもかもみな懐かしい。山の麓に広がる集落を抜けると、本格的な山越え。前回来たときは昼間だったが、今回は夜だ。途中、眼下に広がる大野市街の灯がよく見える。これはこれでなかなかよい景色だ。
丁トンネルを抜ける。やっぱり夜のトンネルは怖い。昨日の小坂々峠といい、こんなんばっかしである。次は野津又トンネル。あれ、国道476号のトンネルってひとつだけじゃなかったっけ。同じところをぐるぐる回っているような気がして怖くなる。そして、トンネルを抜けるころ、バックミラーに一瞬だけなにかが映った。後続車のライトっぽい。
トンネルを出てからは急カーブの下り勾配が続く。バックミラーにライトが映る間隔がだんだん短くなってきた。どうやら追いつかれつつあるようだ。怖っ、怖いよ。たぶん単に地元の人なんだろうけど、スピードが尋常ではない。追いつかれたら最後、なにかとんでもないことが起きるのではないかとの思い、必死に逃げる。なんでこんな目に。
中手の集落まで下りてくると道が広くなるので、路肩に車を止めて道を譲る。なんだ、やっぱり地元の人じゃん。わかってしまえばどうってことはないのだが、真っ暗な中でちらつく灯というのは不安を覚えるものだ。こういう感覚は、21世紀を生きる私と天狗党の時代でもそうそう変わるものではないと思う。たぶん。
河原から横越と進む。松ケ谷から県道34号へ。こんどは反対側から宝慶寺方面へと向かうことになる。おそらく途中で通行止めになるだろうが、進めるところまで進んでみることにした。
千代谷を過ぎ、大本へ。集落の外れにここから先通行止めの案内が出されていた。昨年7月の水害で流されたとのこと。そういうことだったのか。一応、進む気になればもう少し進めそうだったが、さっきの転回で苦労したのを思い出し、ここでやめておくことにした。

大本
大本から県道34号を千代谷まで引き返す。ここで左に折れ、部子川を渡って金見谷へと向かう。入っていくのがためらわれるような道である。どうで途中で通れなくなるんだろうな、と半ばあきらめた気分で車を走らせる。道に沿って電柱があるので、家がまったくないということはなさそうだけど。
金見谷に出た。なんだ、普通に集落があるじゃん。さらに先へと進む。道幅が狭くなりカーブが増えるが、通行困難とか不可との表示があるわけでもなく、道は続く。やがて道が下りに転じ、そのまま道なりに走っていくと国道476号へと出た。あれ、なんだか知らないうちに抜けてしまったらしい。事前の予想ではここは通行不可だろうな、と思っていたのに、あっさり抜けることができて拍子抜けである。というか、今回の旅で通れそうにもないけど実際に通れた、という箇所はここだけである。その逆は腐るほどあったけど。
国道476号を池田町の中心部に向けて走る。須波阿須疑神社前の駐車場に車を止めて少し休憩を取り、再び国道を南西へ。上荒谷、定方、角間を経て新保へ入る。途中の地名はバス停があるのでわかりやすい。新保で進行方向を南に変え、東俣に到着。ここから先、国道476号は今庄方面へは通行不能との表示が出ていた。また、池田町内にも武生方面から迂回せよとの案内が出ていたので、おとなしくそれに従うことにする。

東俣
国道476号を戻り、国道417号で武生方面へ。いまにして思えばこれが今回の旅における最大の間違いの始まりだったのだが、例によってこのときはそんなことに気づくこともなかった。
東俣出発は午後10時半、残された時間はわずかしかない。帰りに丸一日かかることを考えると、できれば今日中に新保に到着しておきたい。明後日はいつもどおり出勤しなければならないからだ。そんな気持ちが強く、なるべく確実なルートを通ろうと思ったのがすべて裏目に出て、この後ひたすら遠回りを繰り返すことになった。
最初の失敗は武生へのルートである。武生に出るには福井県道201号 菅生武生線か県道203号 池田南条線を使った方が近いのだが、このときは県道よりも国道のほうが確実であろうと判断し、国道417号を選択した。いまにして思えばただ遠回りである。
ふたつほどトンネルを抜けて武生市街へ。次いでここでもミスをやらかした。時間がないのだからおとなしく北陸自動車道を使って今庄まで行けばよいものの、先日の北陸本線の経験から武生から今庄なんてすぐだろうと思い、武生ICを通過してしまった。そして、そのまま国道8号へ。
あれ、なんかおかしいな。私の記憶が確かなら、敦賀に向かう途中に今庄への道があって、その案内表示もあったはずだ。途中、南越前と書かれた表示があったが、そんな町名は聞いたこともない。なんか変だなとは思いつつも、そのまま国道8号を直進。トンネル連続区間に入ると、さすがの私でも今庄への道は通り過ぎてしまったことに気がついた。敦賀バイパスへと入り、国道476号の交差点で下りる。するとすぐに左折で今庄の表示があった。これにしたがって国道476号を戻る。
なんのことはない。私は今庄町が南条町、河野村と合併して南越前町となったことを知らなかったのだ。それで、南越前という表示はすべて無視して、今庄という地名だけを頼りに走った結果、敦賀まで来てしまった。もとはといえば私の無知が原因なのだが、今庄という地名が国道8号から(たぶん武生市内からも)きれいさっぱり消えてしまっていては気がつきようがない。なにか解せないものを感じつつ、敦賀から国道476号を今庄方面へ。
木ノ芽峠トンネルを抜けると国道365号に出る。長い下り坂が続く。途中、後続車に道を譲る。対向車もそうだが、走り屋仕様の車が相当なスピードで走っていて、危ないことこのうえない。左手に北陸本線が見えてくるとすぐに今庄駅である。ここはいったん駅を通り過ぎ、国道365号と別れて再び国道476号へ。田倉川に沿って西に進む。小倉谷付近からは勾配がきつくなり、進路が北西に変わる。道路はきちんと整備された2車線で、この先で道が通行不能とはとても思えない。
そして杣木俣に到着。ここから先は通行不能との案内と同時に、クマ出没注意を呼びかける看板が立っている。ここでUターン。かなり遠回りをしたものの、ようやく天狗党のルートに復帰できたわけだ。東俣 - 杣木俣は直線距離で約3km、それに対して、私の走行距離は約90km、とんでもない大回りをしたわけだ。ちなみに、県道201号経由だと約40km、県道203号経由だと約35kmというところで、あらかじめ調べておけば半分以下の労力でここまでたどり着けたはずなのだ。なんだか悔しい。
国道476号を今庄方面へと戻る。さっき通った道なのであっという間に国道365号まで戻ってきた。今庄駅の手前から北陸本線の踏切を渡る。かつての雰囲気を残す今庄の街を通り、今庄駅へ。駅の照明は消えておらず、まだ営業しているようだ。駅に車を止めて休もうかと思ったが、営業中なら邪魔になるかと思い、すぐに出発。
今庄駅前の道を北陸本線を渡らずにそのまま南今庄方面へと向かう。げげっ…またも道がない。いや、あることにはあるのだが、自然に還りつつあって私の車では進めそうにもない。しかし、引き返すにしても道は狭い上に微妙に曲がりくねっており、バックで戻るのも容易ではない。しかも数百mは戻らなければならないし、途中、路駐していた車があったのでそれもよけねばならない。
泣きそうになりながらバックする。福井県道207号今庄杉津線に出るT字路まで戻り、おとなしく県道207号へと出る。県道207号を北陸本線に沿って南今庄駅方面へ。円覚寺の前からさっきのダメ道路の続きに入ってみる。あれ、こっちは普通に通れるじゃん。あの荒れっぷりは何だったんだか。もしかすると通れたのかもしれないが、いまとなっては謎である。南今庄を過ぎたところから県道207号を横断し、集落の中を進む。側溝の蓋を踏む音がカタカタと鳴り響く。あああ、こんな夜中に大きな音を出してごめんなさい。なるべく音を出さないようにゆっくりと走る。
新道から左折し、二ツ屋宿へと向かう。なにもないのかと思いきや、普通に集落がある。ただし、集落を抜けるととたんに道が狭くなる。いずれ通行不能になるだろうと、早々に引き返す。県道207号を今庄方面へと戻り、国道365号を敦賀方面へ。途中、右に折れると今庄365スキー場へと向かう道がある。ここから天狗党が通過した木ノ芽へと向かうことができるらしいが、時間が時間だけにやめておくことにした。ヘタレな子孫は木ノ芽峠トンネルを使い、新保へと向かう。
木ノ芽トンネルの手前で国道365号と別れ、国道476号へと入る。トンネルを抜け、少し坂を下ったところで左折すると新保の集落だ。うぎゃー、なんだこの坂は。しかもUターンするところがないぞ、これ。意来寺の前で半ば強引に転回。それにしても急坂の周囲に家々が建ち並ぶ光景は、かなりエキセントリックといえよう。

新保
新保到着は日が変わって午前1時40分。大子を出発してから36時間強、ちょうど1日半というところである。途中、迷子になったり迂回した時間を除けば、おそらく30時間程度で到着できるだろう。天狗党が40日かけて行軍した道程を、たったこれだけの時間で走破したのだ。これも、現代の文明と平和のおかげだろう。
天狗党の降伏
1月8日(旧暦12月11日)、天狗党は新保に到着する。加賀、小浜、鞠山、大野、勝山、鯖江、丸岡、福井、大聖寺、彦根、大垣、会津、小田原、福岡等の諸藩からなる数万の軍勢に包囲された天狗党は、すぐ下に陣取る加賀藩との交渉を開始。慶喜宛の書状を加賀藩に託すものの、慶喜はこれを受理しなかった。加賀藩は天狗党に食料や馬の餌を送ったりして好意的に接するが、幕命には逆らえず、旧暦12月17日に総攻撃を開始すると天狗党に伝える。頼りにしていた慶喜が幕府軍を率いていることを知った天狗党は、ここにきて遂に降伏する。
降伏後、天狗党は敦賀へと移送され、本妙寺、本勝寺、長遠寺に別れて収容される。当初、正月には加賀藩から酒が振る舞われるなど天狗党の扱いは寛大であったが、田沼意尊が赴任してから状況が一変する。窓を閉ざした鰊倉に移されたうえ、足枷をかけられ、倉の中央に据え付けた樽を用便の場とし、食事は1人あたり1日2個のにぎり飯とぬるま湯のみという処遇に晒される。状況がわからない天狗党はこれを加賀藩の裏切りと考えたが、加賀藩は幕府に寛大な処分を願い出るなど最後まで天狗党には同情的であった。
3月1日(旧暦2月4日)、武田耕雲斎ら幹部ら24名が処刑されたのを最初に、以後、3月20日(旧暦2月23日)までの間に計353人が処刑された。幕府は彦根、小浜、福井藩に実行を命じたが、福井藩は「そのような仕事は牢番頭がやることであって、我が藩にはそのような卑しい役目を望む者はいない。どうしてもというのなら国元を通して命ずるように」として拒否した。福井藩もまた天狗党に同情するものが多かったという。
武田耕耘雲斎ら4人の首級は水戸へ送られ、町内を引き回された後、那珂湊にて晒され、野捨てとされた。耕耘雲斎の妻ときと2人の幼い子供も処刑されるなど、幹部の遺族も多くが処刑や終身刑となった。
討つもはた討たるるもはた憐れなり 同じ日本の乱と思えば(武田耕雲斎)
行くさきは冥土の鬼と一勝負(山国兵衛)
新保を出て、国道476号を敦賀市内へと下っていく。降伏した天狗党が通った道である。途中から国道を離れ、気比神宮の前へ。敦賀の街だ。幾度かの戦闘をくぐり抜け、慣れない山道を遙々ここまでやってきた彼らの信念は、著名な幕末の志士に比べて決して劣るものではないだろう。ただ、ちょっと時期が早すぎたり、主張が過激だったり、方法にも問題があったり…あれ?
学校の授業ではまず大きく取り上げられることがない水戸天狗党。今回の旅を通して、やっと過去の意味がわかったような気がする。となれば、彼らの夢の続きを叶えるため京都へ向かうべきなのだが、残念ながら明日は出勤日。というわけで、もうおウチ帰ゆ!!
すみません、子孫は最後までヘタレでした。
光武 敏郎:天狗党が往く(秋田書店、1992年)
杉田 幸三:天狗党血風録(毎日新聞社、1993年)
茨城大学図書館 古文書・貴重資料 水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/mitogaku/
DL新八〜水戸天狗党の跡を追う〜
http://www4.airnet.ne.jp/kotsune/