石巻市立大川小学校。東日本大震災の津波により児童、教員あわせて84名が犠牲となった。いまさら詳しい説明は必要ないだろう。
その現場を見たくなった。単なる好奇心、野次馬根性といえばそれまでだし、否定するつもりもない。だが、どうしても見ておきたい。見ておかねばならないような気がする。どうしてかは自分でもわからないが。
2013年7月18日、奇しくも大川小学校事故検証委員会による「大川小学校事故検証中間とりまとめ」が発表された日、大川小学校へと足を運んでみた。
三陸自動車道 河北ICを下りて、宮城県道30号 河北桃生線を北上川の南岸に沿って東進。実は、目的地がどのあたりか事前に調べずに出発していた。なんとなく、新北上大橋に向かえばいいんだろうとか、そんな軽い気持ちだった。
横川集落で道は堤防から下り、少し狭い集落の中を進む。もう一回堤防に上り、少し進むと大きな橋が見えてきた。橋のたもとの信号で止まる。手元のPocket Mapple Digital 13で位置を確認。やはりここが新北上大橋か。だとすればこのへんにあるはずだが。さてどこだろう。
信号が青に変わる。前に止まっていた車は多くが左折し、橋を渡る。もしかして直進はできないのかと思ったが、すぐ前のクラウンが進んでいったのでそのままついていった。
交差点を下りてすぐ、右手に建物が見えた。これが大川小だと認識できるまで少々時間がかかった。建物よりも、立派な道路を残して何も残っていない土地、そして所々でうごめく重機群に気を取られたからだ。
クラウンはそのまま小学校へ入っていったが、単なる野次馬の私が続いて入る気にはなれなかった。そのまま直進し、かつて郵便局があった付近に車を止めた。
あらためてPocket Mapple Digital 13を確認。やはりあれが大川小なのだ。校舎以外、この地に残っているものはなにもない。

雨の中、傘を差して大川小へと向かう。この先、同じように津波にやられて何もないはずなのだが、歩いている側を車が行き交う。たぶん工事関係者だろう。そんな中、平日の昼間にこんなところをうろうろしている私は、いったいなんなのだろう。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、大川小に到着。供養塔婆に手を合わせる。先ほどのクラウンは既におらず、現地にいるのは私ひとりだ。

校舎の周囲には水がたまって近づけないが、この距離からでも二階まで津波が押し寄せたことがよくわかる。

野外ステージには卒業制作の壁画が残っていた。その後ろの見えるのが体育館跡。さらにその後ろの杉林が問題となった「裏山」だ。こうしてみると、道があれば登れそうな気がしないでもない。保護者らが避難場所にすべきだったと指摘している場所はここらしい。

「裏山」その2。学校からみて南側。竹林と杉林の間に入って行けそうに見えるが、道がなければたぶんすぐに行き止まる。

「裏山」その3。学校から南西側、避難に向かったとされる三角地帯からみて最も近く、児童らが追い詰められた場所。これを普通に登るのは無理だろう。このように「裏山」といっても小高い丘がひとつあるわけではない。

校舎に近づいてみる。この向こうにプールがあったらしい。右の建物の2階は更衣室だったようだ。いまとなっては、すっかりきれいに片付けられた大川の集落のはるか先まで見通せる。

1階は右から順に理科室、家庭科室、保健室。2階はやはり右から図工室、6の1の教室、5の1の教室、4の1の教室と続く。

この丸い空間は、右側が2の1の教室、左側が1の1の教室。大川小はよくあるような四角い建物ではなく、凝ったつくりだったことがよくわかる。

2の1の教室の上のスピーカー。津波の衝撃で変形したのだろうか。

更衣室の上では、3羽のカラスがしきりになにかをやりとりしていた。校舎を残し、きれいさっぱりなにもかもなくなったこの地に、彼らが集まる理由はなんなのだろう。カメラを構える私を気に留めるでもなく、彼らの会合は続いていた。
地元の住民も含めると100名以上の方々が犠牲になった場所のはずなのに、いまひとつ実感がわかない。倒壊した校舎から津波の破壊力はなんとなくわかる。しかし、それが多数の人間の命を奪ったということに結びつかないのだ。
その理由は、瓦礫がきれいに片付けられてしまったためだろう。
私のような野次馬はひとりやふたりではあるまい。これまでの私は、たとえ野次馬であっても、被災地の現状を知ってもらうのであれば、積極的に現地に足を運んでもらいたいと思っていた。しかし、ここまできれいさっぱり片付いていると、被災地というものが誤解されてしまうのではなかろうかと疑問に思うようになった。「いま」の被災地を見てもらうことは本当によいことなのだろうか。だんだんとわからなくなってきた。
それでも、もうしばらく被災地の訪問は続けてみようと思う。そのとき忘れてならないのは、3.11以前のその場所はどのような土地であり、3.11を境にどう変化し現在に至ったかという時系列であろう。それがなければ、ただの更地の紹介ばかりになってしまう。
そんなことを考えつつ、大川小を後にした。私のような個人が伝えられることはなんだろうか。