奈良駄峠が通れない

気がついたら 採石場に侵入 そしてそこで 途方に暮れる

2007年10月5日、私は桜川市(旧西茨城郡岩瀬町)の採石場で途方に暮れていた。

というのも、その日、私は羽黒駅から奈良駄峠を経由して真岡鐵道 益子駅までの徒歩旅を計画していた。茨城 - 栃木の県境を奈良駄峠で越えるおよそ27kmの道程である。しかし、肝心の奈良駄峠へどうしてもたどり着けない。麓から道なりに進むと採石場に出て終わりである。採石場の手前の沢へと入っていくのが峠への道らしいのだが、途中で消失してしまっている。

奈良駄峠への道
奈良駄峠への道

あたりをうろうろしていると、採石場から軽トラックがやってきた。私の姿がよほど怪しかったのか、車を止めて向こうから声をかけてきた。そこで、茂木に向かう途中で道に迷っている旨を正直に伝え、どうやったら峠を越えられるのか聞いてみた。

軽トラックの運転手によると、この道は採石場で終わりここから先は通れないという。ついでなので、そこの沢が道ではないのか聞いてみると、もしかしたらかつては林道があったかもしれないとの返事だった。ただ、詳しいことは知らないらしい。

この日は奈良駄峠越えをあきらめ、稲田駅から電車で帰宅したのであった。

あきらめずに 栃木側から挑戦するけど すぐに峠に着くよ

10月7日、懲りずに再びやってきた。

一昨日は茨城県側からで失敗したので、栃木県側から攻めることにした。益子駅から歩くこと約2時間、峠の麓の茂木町小貫にたどり着いた。本当は茂木駅からバスでここまでくるつもりだったのだが、列車を1本間違えて歩くはめになったのは秘密だ。

栃木県側から見た奈良駄峠
栃木県側から見た奈良駄峠

小貫の集落を抜けて高峯への道と別れ、仏頂山方面へ向かう。やがて舗装が途切れ砂利道となるが、途中までは軽トラックなら十分通行可能だ。ガードレールもある。しかし、高度を増すにつれて道は細くなり、最後は完全な徒歩道となる。栃木県側の道はよく整備されており迷うことはない。途中、崩落している箇所があったが、そこさえ注意すればなんてことはない。あっさり奈良駄峠に到着。

奈良駄峠からの眺め
奈良駄峠からの眺め

ちょっと待てやコラ。このまま採石場に降りられるやんけ。一昨日のオヤジ、適当なことぬかしやがって。

とはいえ、採石場へと降りるのは本来の道ではない。ここはきちんと本来の道を通ってみようではないか。目の前に道らしきものがあるし。

関東ふれあいの道との分岐
関東ふれあいの道との分岐

どうみても廃道です。本当にありがとうございました。

採石場を通れば 楽に岩瀬の街まで下れるけど

ここから本番である。前が見えないほど生い茂った草をかき分け、倒木をくぐって前へと進む。すると…

はっきりと残る道
はっきりと残る道

道だ。確かに道がある。ほんの少しだけどはっきりとした道が残っている。なんだか嬉しくなった。しかし、すぐに道は藪の中へと消えそうになる。再び生い茂る草をかき分け、つづら折れを下りるととまたもや採石場の端へと出た。はるか上にさっきまでいた奈良駄峠が見える。下ってきた感覚はあまりなかったのだが。

採石場への脱出口
採石場への脱出口

ここで足を止めて考える。沢が出現したのだ。採石場から流れ込む水と、反対側の山肌から流れ込む水がここで合流して、本格的な流れが始まる。いまのところ採石場側の流れは枯れているようだが、緑があふれる山肌からは水が流れ出している。ちょっと先ではそれなりに深いところもあるようだ。

いまなら採石場を経由して安全なルートに戻ることができる。ちょっと、いやだいぶ迷ったが、沢を渡って進むことにした。というのも、この先の道は沢沿いではく、いったん沢から離れて山の斜面に沿って進むらしいからだ。ただし、渡ったが最後戻れないと困るので、戻れるかどうかだけは慎重に確認してから沢を渡った。

で、ここから先はこんな感じ。

藪その1 沢 藪その2 崩落した法面

すすめーすすめー、ものどーも♩ 邪魔なー藪をーけちらーせー♩
すすめー麓の街へ 岩瀬を目指すのだ!

思わずボコスカウォーズのテーマソングが口から出そうになるが、本当に口を開けると草を食べしまいそうなので止めておく。

何回やっても 何回やっても 奈良駄峠が…通れた!

倒木をくぐること数回、草をかき分け、崩落した法面を横目に進む。道は消えそうで消えず、わずかに残されたその痕跡たどって行く。さっきの沢に出た。これを再び渡ってさらに先へ。背の高さほど茂った草を払いのけると、ようやく目の前が大きく開けた。

川と化した道
川と化した道

川、というよりも湿地帯である。足を滑らせないよう慎重に進む。ここから先、道は川沿いに進む。というか、本来の道が川と化してしまっているようだ。道らしい道はない。両岸に生えた木々の合間を蔓が茂る。

そして、目の前に見たことのある景色が広がった。

採石場への道へ抜けたところ
採石場への道へ抜けたところ

ちょうど一昨日の光景を逆から見たところである。あとはこの道を下っていけば山口集落だ。少しばかり急ではあるが、車が通れるくらいのしっかりした道だけあって歩きにくいことはない。10分ほどで茨城県道289号 富谷稲田線に出る。

一昨日のルートを逆に辿って岩瀬駅へ。途中、振り返って奈良駄峠を見る。

茨城県側から見た奈良駄峠
茨城県側から見た奈良駄峠

採石場の岩肌が見えるところが峠だ。こうしてみるとあまり目立たない。

駅へ向かう途中、幾人かとすれ違った。彼らは私があの峠を越えてきたとは思いもしないだろう。ほんの少し優越感に浸りながら駅へ急ぐ。

奈良駄峠はなぜ廃れたのか

さて、奈良駄峠はいつからこんなことになってしまったのだろうか。岡村 青:茨城の峠(筑波書林、1988年)に奈良駄峠に関する記述がある。以下抜粋。

今は、車はもちろん徒歩でさえ越えるのにむずかしいほど荒れはてて、それこそタヌキやイノシシが大手を振って通っていそうな道になってしまっているが、かつては、この峠を越える者も多く、こちらとあちらの交流は頻繁だったらしい。山むこうに盆踊り大会や鎮守祭りがあるというと、広沢さんも若い衆の時分にはこの峠を越えてよく仲間と出掛けていったものだという。

つまり、1988(昭和63)年には既に廃道寸前だったらしい。それから約20年、未だ一部に道の形態を保っているということは、たまに利用する人がいるのかもしれない。「茨城の峠」では奈良駄峠を「まるで地獄の底」と書いている。推測ではあるが、たぶん本来の奈良駄峠の道は採石場に通じる道とは無関係で、沢沿いにそのまま山口集落へと下りていくのだろう。それなら「行けども行けどもいっこうにたどり着かない道」と評されたのも納得できる。

「茨城の峠」に出てくる広沢さんは、発行時に85歳になるという。その広沢さんが「若い衆の時分」といえばそれから60 - 70年ほど前だろう。すなわち1920年代、大正時代には奈良駄峠には人の往来があったようだ。

もうひとつ、奈良駄峠について触れている文献がある。御田 琴雄:マウンテンガイドブックシリーズ第40 常陸の山(朋文堂、1960年)だ。

西茨城郡の西北、芳賀郡の国境は八溝山脈の仏頂山連峯が東から西方に走る。(中略)この連峯は南から北へ越える峠には、奈良駄峠(三一二メートル)、門毛坂(三四○メートル)、仏山峠(一九三・五九メートル)、大手坂(一二一メートルがある)。

素っ気ない記述だが、県境越えの峠として筆頭にあげられている。現在の栃木県道・茨城県道1号の仏山峠を差し置いてだ。この本が執筆された頃、つまり太平洋戦争が終わってしばらくの間、奈良駄峠はまだ普通に通行可能だったのだろう。そして、この本には、当時の奈良駄峠からの風景写真が掲載されている。現在の風景と比べてみよう。

1955(昭和35)年頃 奈良駄峠 1955(昭和35)年頃

2007(平成19)年
奈良駄峠 2007(平成19)年

ちょっと角度が違うが、上が「常陸の山」、下が私が訪れたときである。「常陸の山」の筆者によると、掲載した写真は発行から1 - 2年以内のものを選んでいるとのことなので、1960(昭和35)年頃の写真と見ていいだろう。奥に見えるふたつの山のうち、右が吾国山、左が難台山である。

当然だが採石場はない。現在、採石場への道がある向かって右側手前の山肌には道らしきものは見えず、このことからも奈良駄峠から山口集落まで沢沿いに下りていくのが本来の道だと推測される。

これらの資料から、1960年代から1980年代にかけて奈良駄峠が荒れていったとみてよいだろう。この時期、いったいなにがあったのか?それはいうまでもなくモータリゼーションである。このため、車が通れない奈良駄峠は急速に廃れてゆき、峠を挟んだ交流もほぼ途絶してしまったと思われる。

採石場は現在も稼働中のようだ。奈良駄峠の風景はさらに変わっていくことだろう。その一方で、峠道は自然へと帰っていき、いつしか人々の記憶からも消え去ってしまうのかもしれない。こんな形で少しでも記録に残れば幸いである。

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