東日本大震災

はじめに

被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

2011(平成23)年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の地震が東北から関東の太平洋岸を襲った。後に平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震と名付けられたその地震は巨大な津波を引き起こし、海岸沿いの街を次々と飲み込んでいった。

さらに、津波によって福島第一原発の緊急炉心冷却装置稼働用の非常電源が故障。外部電源も失われ、原子炉が冷却できない事態に陥った。それに加えて使用済み核燃料の冷却もできず、1号機から4号機が次々に爆発、火災を繰り返した。地震から1ヶ月以上経過した現在(4月13日)でもまだ収束の見通しすら立っていない。

私は日立市内の職場で地震に遭い、直後に避難したいわき市の実家で原発事故に直面することになった。それらの出来事を忘れないうちに記録しておく。

3月11日

地震発生時、私は職場の自席にいた。最初は大きくゆっくりした揺れが長く続いたので、どこか遠くで巨大地震が起きたのだと思っていた。しかし揺れはいっこうに収まらない。それどころかさらに大きな揺れがきた。この時点でただ事ではないと気づき、慌てて机の下に潜る。天井の蛍光灯が消え、非常用の電球が点灯。こんな事態は初めてだ。

揺れが収まった後、ヘルメットを被り屋外へ避難。余震が続く中、携帯電話でテレビを見ていた人から大津波警報が出たとの声があがる。波高は10m以上とのこと。どうせまた大げさなんだろうと思ったのも束の間、大洗に4mの津波が到達との報が入る。今回の警報は本物らしい。これでは海岸線から100mも離れていない我がアパートは跡形もないだろう。はっきりダメだとわかるとかえって落ち着くのか、このときはあまりに気にならなかった。

地震からおよそ1時間後、建物の中に戻る。自席の被害はなし。机の上をきれいに片付けておいたのがよかったらしい。続いて別棟の仕事場をのぞいてみる。こちらは惨憺たるものだ。あろうことか、私が使っていたワークステーションが横倒しになっている。これはもう起動できないだろう。バックアップはとっていないしどうしたもんだか。

壁にかけてある時計が止まっていた。せっかくの記念に写真に収める。この時計は10分ほど進んでいたので、地震発生時の2時46分ではなく2時55分を指している。

止まった時計
止まった時計

よく見たらこの時計、落ちたわけでもないのになぜか止まっている。不思議に思って手にとってみると、裏に入っている電池が外れかかっていた。それほど激しく揺さぶられたのだろう。それにしてはよく落ちなかったな。

この日はもう仕事にならないので、管理職を残して解散ということになった。私のような下っ端は勝手に帰れとのこと。それはそれでありがたいのだが、大津波警報のためアパートに戻ることができない。そこでいわき市の実家へと避難することにした。電話をしてもつながらないため、どうなっているか確認したいという気持ちもあった。

津波のため国道6号は使えない。県道10号 日立いわき線で北上する。停電で信号が消え交差点で渋滞しているものの、大きな混乱はない。路面に大きな損傷はなく、大心苑付近で波打っている程度だった。

ところどころで塀が崩れている。道路をふさぐような倒れ方をしている箇所がなかったのは幸いだった。華川郵便局の近くでは水道管が破裂したらしく、道路に水があふれていた。その横を抜け、老朽化のため重量制限11.9tの華川橋をおそるおそる渡る。頼むから落ちるなよ。

関本町富士ケ丘からは県道27号 塙大津港線で大津港方面へ。泉沢霊園の横を抜け、勿来の関へと出る。津波見物の暇人が並んでいるかと思いきや誰もいない。そんな余裕がないくらい深刻な事態ということを悟る。

勿来駅に向かって下りていく。常磐線にかかる関田跨線橋は既に通行止め。国道6号に出ることはできない。左折して窪田方面へと向かう。勿来第二中学校の前に差し掛かると、次から次へと車が入っていくのが見えた。避難する人たちらしい。入口で誘導している人の表情は真剣だ。やはりただ事ではない。

実家に到着。家族はみな無事だった。壁に少しひびが入ったものの、家屋の損傷はほとんどない。水道とガスが止まったが、電気はきている。そういえば近所で水道管が破裂していたな。あれが直らないことには水は出ないだろう。

夜6時過ぎ、友人からメールが入る。津波はアパートまで到達せず、無事とのこと。すべてを失ったと覚悟していただけにありがたい知らせだった。停電で真っ暗なうえに大津波警報が出ている中、偵察に出てくれた友人に感謝。

当初の予想よりも被害は少なそうだ。混乱が収まればすぐに元の生活に戻れるだろう。このときはそう思っていた。そこに福島第一原発の緊急炉心冷却装置が稼働しないとのニュースが入る。なんだかとても嫌な感じがする。悲しいかなこの予感は的中し、楽観的に捉えていた事態はあらぬ方向へと展開していくことになる。

3月12日

朝、ようやくADSLがつながり、テレビ以外の情報が得られるようになった。だが、あちこちで混乱しているようでどれが正確な情報なのかわからない。確かなのは未曾有の大災害だということ、特に津波の被害が大きいということくらいだ。

両親が海岸近くのお墓の様子を見てくるという。まだ大津波警報が出ているというのに。しばらくして両親が戻る。すぐ近くまで水が流れた跡があるが、ぎりぎり冠水は免れたとのこと。墓石の倒壊もなし。ただ、同じ墓地内には水で抉られたり倒壊したものもあったそうだ。

家に引きこもっていてもしかたがないので、私も外の様子を見にいくことにした。まずは昨日見かけた水道管破裂の現場へ。水の流出は既に止まっているものの、周囲は砂だらけ。

水道管が破裂した跡
水道管が破裂した跡(いわき市勿来町関田西1丁目)

その先では塀が壊れている。この塀もそうだが、大谷石の塀は無事なものがむしろ少数なのではと思うくらいあちこちで崩れていた。

壊れた塀
壊れた塀(いわき市勿来町関田西1丁目)

ここから歩道橋を渡って勿来駅へ。構内には貨物列車が止まっている。初めて見る機関車だな。EF510-514とある。後で調べたら比較的新しい車両らしい。そりゃ見たことがないわけだ。

EF510-514
EF510-514(勿来駅構内)

もう少し周囲を見て回りたかったが、水が出ないのに汗まみれになるのは嫌なので早々に引き上げた。

この日、業者がきてガスメーターの地震安全装置を解除してくれた。これでガスも使用可能になり、残るは水道だけとなる。向かいの家の井戸と外便所を借りているので深刻な状況ではないが、あまり長期化すると気が引ける。

夕方、福島第一原発1号機で水蒸気爆発。ありゃー…1号機とうとう死んじゃったのか…。

3月13日

昨晩、福島県沿岸に出ていた大津波警報が津波警報に、茨城県沿岸の津波警報が津波注意報に切り替えられた。これを機に海を見にいくことにする。私の実家は福島県にあるが、茨城県境から5kmも離れていない。実態としては津波注意報だろう。それでも危険なことには変わりないが。

勿来駅前から国道6号を渡って海へと向かう。下の写真を撮った場所は海からおよそ500mの地点。田んぼが水没しているのがわかる。海岸線から400mくらいまで水がきたようだ。

水没した田んぼ
水没した田んぼ(いわき市勿来町関田堀切)

田んぼを抜けると旧陸前浜街道に出る。道路には砂があふれ、津波が通過したことは一目瞭然だ。海岸から浜街道からの距離はおよそ200m。この付近では床上まで浸水した家もあったらしい。

陸前浜街道
陸前浜街道(いわき市勿来町関田北町)

さらに歩を進めて海岸線へ。防潮堤が見えてきた。砂浜からの高さは2mくらい。このような防潮堤が勿来海水浴場から蛭田川河口まで続く。今回の津波はこの防潮堤をほぼ全域で乗り越えてしまったようだ。

防潮堤
防潮堤(いわき市勿来町関田須賀)

防潮堤に沿って北へと移動する。集会所がめちゃくちゃに壊れていた。このように海に向かって窓や玄関がある建物は被害が大きくなるらしい。水がガラスを破って浸入してきてしまうのだとか。

関田須賀集会所
関田須賀集会所(いわき市勿来町関田須賀)

流された車が公園の滑り台に引っかかって止まっていた。車が押し流されたにもかかわらず公園の遊具に損傷はない。手前や後ろに生えている木もそのままだ。

流された車
流された車(いわき市勿来町関田須賀)

ふと周囲を見渡すと、電柱や看板は倒れていないことに気づく。集会所は破壊されているのに、その隣の電柱は曲がりもせず立っている。津波を受け止める面積が小さく周囲に余裕がある建造物は、津波を受け流すことができたらしい。

一方、津波をまともに受け止めてしまう建造物は、その最も弱いところが津波によって破壊されてしまう。だから窓ガラスが割れ、フェンスが倒れているのだ。破れた箇所には流れが集中するので、穴が開いた建物はさらに被害が拡大する。素人考えなのでどこまであっているかわからないが、そんなに間違ってないだろう。

さらに北へと歩いていくと、関田海岸の最北端、蛭田川の河口に到達する。ここにはいわき市南部衛生センターがある。頑丈そうにみえるこの施設も津波にやられていた。金属製のドアもご覧の通り。ものすごい破壊力だ。そして、このドアに向かって吸い込まれるよう倒れているフェンスが水の勢いを物語っている。

いわき市南部衛生センター その1
いわき市南部衛生センター その1(いわき市錦町須賀)

建物の壁も津波に突き破られていた。窓が無事なことから水深は1mにも満たないだろう。たぶん数十cmなのでないか。それでもこの有様である。10mを超える津波の破壊力を想像したら恐ろしくなった。

いわき市南部衛生センター その2
いわき市南部衛生センター その2(いわき市錦町須賀)

防潮堤はここまで。その先は危険なので、引き返して勿来第二小学校の裏にある伊勢両宮神社に行ってみることにした。参道入口の鳥居は無事だったものの、両脇の石灯籠はどちらも壊れていた。

伊勢両宮神社参道入口
伊勢両宮神社参道入口(いわき市勿来町関田尖島)

鳥居、石灯籠ともに明治44年の文字が見える。ちょうど100年前だ。私の曾祖父が現役だったころか。祖父はまだ1歳だ。よもやこんな壊れ方をするとは二人とも想像できなかっただろうな。

石段を上って神社の正面へ。ここでも石灯籠が倒れていた。手前の新しいものは地震に耐えたものの、奥の古いものは耐えきれなかったようだ。

伊勢両宮神社
伊勢両宮神社(いわき市勿来町四沢伊勢林)

今日の探索はここまで。ガソリンがないので車は動かせないし、まだ風呂に入れないので適度なところで切り上げておかないと酷いことになりそうだ。

福島第一原発の状況は悪化するばかり。ついに3号機の燃料棒が露出。いったんは水面下に収まるものの再度露出し、海水の注入が始まる。いつ炉心溶融を起こしてもおかしくない状態が続く。こういう形での手に汗を握る展開は勘弁してほしいのだが。

3月14日

前日の夜、ようやく津波注意報が解除された。これでアパートに近づける。そこでこの日、母の自転車を借りてアパートまで荷物を取りに行くことにした。

できれば車を使いたいところだが、私の車も父の車も燃料切れ寸前。ガソリンスタンドはいつ営業を再開するのか見当もつかない。常磐線は復旧の見通しどころか音沙汰すらない。残る手段は自転車しかない。

天気予報によると明日以降の天気は下り坂。今日が最後のチャンスだ。いまなら南風なので原発がいろいろ撒き散らしても時間が稼げる。帰り道で追い風になるので荷物の運搬にも有利だろう。

アパートの無事は確認済みだ。それでも出かけようとしたのには理由がある。空き巣が怖いので貴重品を持ち出したいし、部屋の状況も気がかりだ。電源コードが崩れた家具に押しつぶされて断線していたりすると、復電時に火災になるかもしれない。

さらに、車検を終えたばかりの我が愛車が保安基準適合標章のままなので、部屋に置きっぱなしの検査標章を回収して貼り換えなければならない。休日に落ち着いて作業しようとしていたのが仇となった。保安基準適合標章の有効期限は3月18日まで。これを過ぎると車を動かせなくなってしまう。

日立市はまだ停電、断水が続いてるのでアパートに居続ける気はない。たまたまこの週は月曜から金曜まで休暇を取る予定だったので、無理に出勤する必要もない。インフラの回復ぶりや食料事情を考えると実家に避難していたほうがよさそうだ。荷物を回収したらさっさと戻ろう。

アパートまでは片道30km、いつもなら手ぶらでふらっと出かける距離だ。しかし、今回は途中で水と食料の調達ができない。そこで水筒を2本とおにぎりを4個ほど持って行くことにした。これがかなり重い。

精神的にも重圧がのしかかる。いまの状況では交通事故に遭うとまともな治療は期待できないし、自転車が故障したら残る移動手段は自分の足しかない。トラブルは徹底的に避けなければならない。

そういうわけで、タイヤに空気漏れがないかとかサドルの高さとか、出発前に念入りに点検する。自分の自転車ではないだけになおさらだ。それなのに重大な不具合を見落としたまま出発してしまうことになろうとは。自分でも呆れるほどの間抜けっぷり。東電といい勝負だ。

家を出てから数分後、国道6号に出て巡航モードに入ろうとしたとき、初めてその不具合に気がついた。あろうことか変速機構が壊れている。最も軽いギアに固定されたままだ。どうすんだよこれ。

15km/hでの巡航を予定していたのに、これでは10km/hくらいが関の山だろう。高萩市から日立市にかけては坂が続くので重いギアで固定よりは軽いギアのほうがマシかもしれないが、その前に力尽きそうだ。しかし、今日を逃したら次の機会はいつになるかわからない、そう自分に言い聞かせ国道6号を南下する。

勿来海水浴場では監視塔が無残な姿をさらしていた。その向こうの海が穏やかなだけに異様さが際立つ。

勿来海水浴場
勿来海水浴場(いわき市勿来町関田関山)

監視塔の上階の囲いが破壊されている。少なくともそこまで津波がきたようだ。近所の民宿の人の話では、国道6号にはぎりぎり上がらなかったとか。そうすると津波の高さは2、3m程度だったということか。

県境のトンネルを越えて茨城県へ。停電のため信号が消えている。そのひとつ手前の交差点、勿来漁港入口の信号は動作していたのに。わずか数百m離れているだけで別世界。

平潟港入口
平潟港入口(北茨城市平潟)

この後、高萩市の花貫地下道入口の押しボタン式信号を除き、日立市までの間に動作している信号はなかった。それでも車は走っているので、事故に巻き込まれないよう注意しなくては。

大津港 - 磯原間には特急列車が放置されていた。おそらく仙台行きのスーパーひたち27号。この付近は津波が押し寄せた形跡がある。乗客はどこに逃げたのだろうか。

スーパーひたち
スーパーひたち(北茨城市関南町神岡上)

このあたりは路側帯が狭くもともと自転車には向いていないのに、津波が運んできた砂が道路の端にたまってさらに走りにくい。滑って転んだら後からくる車にひかれそうだし、かといって道路の中心によるとはねられそうだ。

北茨城市の観光名所のひとつ、二ツ島が見えてきた。でもなんだか私の記憶と島の形が違うような気がする。

二ツ島
二ツ島(北茨城市磯原町磯原)

磯原シーサイドホテルの隣から浜に下りてみる。大きいほうの島はともかく、小さいほうの島が半分くらいになっているような気がする。帰宅後、以前(2008年1月)に撮った写真と比べてみたらやはり違っていた。

小さい島の比較
小さい島の比較 左:2008年1月6日 右:2011年3月14日

撮影した角度が違うことを差し引いても明らかに違いがわかる。津波で破壊されてしまったらしい。

野口雨情記念館の前を経て大北川沿いへ。この付近の集落は津波にやられたようで、道路の両脇には瓦礫の山が並んでいた。国道6号は崩壊してしまい片側交互通行である。並行する常磐線では鉄製の柵がなぎ倒されていた。

常磐線
常磐線(北茨城市磯原町磯原)

津波は線路で食い止められたのだと思っていたのだが、実際には乗り越えて線路の向こう側に達したらしい。JR東日本によると磯原 - 大津港間の4kmで津波の被害とのことなので、この区間はほとんどの場所で水を被ってしまったようだ。

大北橋は損傷もなく渡ることができた。北茨城市消防本部の前を通過し、下桜井団地を横に見ながらペダルをこぐ。その先でまた電車が止まっていた。小山行きの普通列車、たぶん2762M。

普通列車
普通列車(北茨城市中郷町足洗)

列車を後にして南下を続ける。塩田川の河口付近は砂だらけ。このぶんだと南中郷駅は水没しているのではなかろうかと思ったが、意外なことに被害なし。この付近では津波の浸水はなかったようだ。

南中郷駅を過ぎるとすぐに高萩市。赤浜から高戸にかけての坂を越え、高萩市街へと突入。高萩警察署の近くでは道路の段差を埋める工事が行われていた。本格的な復旧作業を見たのはここが初めてだ。

高萩駅以南は海岸線に近いにもかかわらず、国道6号まで津波が押し寄せた形跡はない。場所によって被害の程度にかなりの差がある。ほんのわずかな高低差や海岸線の向きで津波が乗り越えるかどうかの違いが出てしまったらしい。

花貫川を渡るといよいよ日立市。ガソリンスタンドに並ぶ車列を横目に先を急ぐ。ぜんぜん列が動かないと思ったら、スタンドは営業していなかった。いずれ営業する予定があるのだろうか。

伊師浜に差し掛かったとき、道端に立っていた男性に声をかけられた。どこからきたのだとか、仕事にいくのかとかどうでもいいような質問が延々と繰り返される。久々に捕まえた話し相手だったのだろう、男性の話は終わる気配がない。こういうのは苦手なのだが、こちらとしても地元の情報が欲しいので適当にあわせる。

アップダウンを2回ほど繰り返すと川尻。十王川の河口付近は津波にやられていた。

十王川河口
十王川河口(日立市川尻町2丁目)

ここで国道6号を離れ、海岸沿いを走る旧国道へ。川尻海岸のバス停を過ぎ、切り通しを抜けると折笠浜。塀が崩れたり津波に運ばれた砂がたまったりして大変なことになっていた。もともと狭い道がさらに狭くなっているので通り抜けるのにひと苦労。見通しもよくないし。

折笠浜
折笠浜(日立市折笠町)

折笠浜を抜けると東連津川。橋を渡ったその先が小木津浜となる。ここでは瓦が落ちた家が目立つ。多くの家に青いビニールシートが掛けられていた。

小木津浜
小木津浜(日立市小木津町5丁目)

小木津浜では新しい堤防が建設中で、東連津川河口よりの200mほどを残して完成していた。堤防が完成済みの場所は被害を受けなかったが、写真手前の未完成域では津波を被ってしまったとのこと。同じ集落内でも明暗を分ける結果となった。

そんなこんなでようやくアパートに到着。玄関を開けようとしたそのとき、一台のバイクがもの勢いでこちらに向かってきた。バイクの男性が私に向かって叫ぶ。

「あんたなにやってんだ!大津波警報だ、逃げろ!」

バイクに乗っているのは警察官だった。郵便配達だと思っていたので予想外の展開にうろたえる。そこに防災無線が鳴り響く。大津波警報が発令されました、直ちに高い場所へ避難してください。あれ、地震なんかあったかな。でも揺れが小さくても大津波って場合もあるしな。明治三陸地震とか。

せっかくアパートまでたどり着いたのに、玄関をくぐることもなく自転車を押して高台へと避難。なんのためにここまできたのやら。とりあえず津波に巻き込まれていないことを知らせるため、実家いる妹にメールを送る。すぐに返信がきた。

「原発では水素爆発がおきたみたいです」

こうなったら津波に関係なく急いで戻らないといけない。風向きは南から北とはいえ、放射性物質がまったく来ないわけではない。どう動くべきが決断を迫られる。

判断材料その1、前回の津波でも浸水しなかった。判断材料その2、揺れを感じなかったのだから前回よりも規模は小さいか遠方の地震。判断材料その3、到達まで30分はかかる。決めた。5分以内に必要なものを取って引き返そう。

玄関を開け突入。部屋の中は真っ暗。雨戸を閉めておいたのが裏目に出たか。停電中のため電気がつかない。預金通帳と印鑑を探す。確認している暇はないのでそれっぽいのを片っ端からかばんに詰める。おっと検査標章を忘れるところだった。2分後、玄関の鍵をかけて高台へと走る。

もういいや。さっさと帰ろう。そういえばブレーカーを落とし忘れたな。でも部屋の中は散らかっていなかったし大丈夫だろう。当初の予定では、風呂の残り湯で頭を洗い、部屋を片付け、荷物をリュックサックに詰め、ゆっくり体力を回復させてから出発するはずだった。

バッテリーが切れかかっているHYBRID W-ZERO3の充電器、P-01Cで取りためた写真を回収するためのFOMA用通信ケーブル、被害状況を記録するためのデジカメ、コンビニが閉まっていて手に入らない髭剃り、暇つぶし用のニンテンドーDS、いろいろ回収したいものがあったのだ。それらはまったく持ち出せなかった。

高台を上り下りして体力を消耗したうえ、休憩もせずに帰ることになった。しかも津波警報のため国道6号は使えない。少し内陸よりの道を駆使して帰るしかないが、遠回りの上にかなりのアップダウンが予想される。参ったな。

小木津から折笠スポーツ公園へと抜ける。自衛隊の給水車に行列ができていた。そこから日立北高の前を通り、十王駅東口を経て伊師本郷へ。十王川では水を汲んでいる親子がいた。途中で防災無線がなっていることに気づいたが、爆音を立てて通り過ぎたインプレッサのため聞き取れなかった。

あくまで推測なのだが、防災無線は津波警報が誤報であることを告げるものだったと思われる。そう、さっきの津波警報は誤報だったのだ。この時点ならまだ引き返すことが可能だったのに、その機会を奪われてしまった。ガソリンの供給が滞っているのだから、せめて無駄にふかさないでほしい。本当にいい迷惑である。

伊師本郷から常磐線の踏切を渡り、びんづる坂を下って高萩市街へ。安良川新町の交差点で交通事故がおきていた。信号機が消えている影響だろう。軽自動車がミニバンの側面に突っ込んだらしく、ミニバンが大きく凹んでいた。こういう状況なんだし、もう少し慎重に運転すればここまでの事故にはならなかっただろうに。

高萩市役所からスーパーモール高萩を経由して下手綱へと抜ける。問題はこの先だ。国道6号を使わないとなるとかなりの遠回りとなる。そんな体力はもはや残っていない。妥協して国道6号へ出ることにし、いわん坂を上る。

通行止めの板が出ていたが、向こうから車がきたので通れるものと判断して先へ進む。坂の中腹に差し掛かると見事なまでのがけ崩れが起きていた。

いわん坂
いわん坂(高萩市下手綱)

私が通過した後、北茨城市の文字が入った軽トラックががけ崩れの脇を抜けていった。高萩陸橋と高戸大橋が通行止めとなり、高萩 - 南中郷間で常磐線を越えられる道がこれしか残っていなかったので、止むを得ないとの判断だったのだろう。

国道6号に出た。津波警報が誤報だということを知らないため、津波におびえながらできるだけ早く通過する。南中郷駅の北側の踏切を渡って中郷ニュータウンを抜け、磯原市街へ。新大北橋は付け根がずれて大きな段差ができていた。ここでパンクしたら洒落にならない。自転車から降りて渡る。

またもや山越え。磯原工業団地の中を駆け上がり、関南に向かって一気に下る。ここまでくればいわき市まであと少し。まっすぐ進めば勿来の関を経由して勿来駅の西口に出る。

五浦変電所の近くのガソリンスタンドが営業しており、長蛇の列ができていた。家に帰ってから並ぼうかと思ったが、いまさら並んでも間に合わないような気がしたので結局あきらめた。

給油待ちの車列
給油待ちの車列(北茨城市関本町関本中)

へとへとになりながらも無事に帰宅。苦労のわりには報われない結果に終わり、がっかりしているところに嬉しい知らせが入る。水道が復旧したのだ。まだ流れは細いが、今夜は風呂に入れそうだという。汗だくになった身にはありがたい。

帰宅後、あらためて報道を確認。3号機の爆発は水素爆発で原子炉本体の損傷はないという。どこまで本当なんだか。事態は好転するどころか、日に日に悪くなる一方で気が滅入る。津波警報が誤報だったことは、原発関係のニュースにかき消されてほとんど話題になっていなかった。

3月15日 - 19日

この間、なにをしていたのか記憶にない。家から一歩も出なかったことだけは間違いないのだが。15日に風向きが北から南に変わり、それまで平常値とほとんど同じだったいわき市平の放射線量が一気に跳ね上がる。これでは外出する気などおきない。

いつだったか忘れたが、近所のスーパーがついに閉店。市場が閉まって仕入れができず、売るものがなくなったそうだ。小規模の店は閉め、大規模店舗に集約して営業を再開するとのこと。だが、ガソリンがないため我が家から買い出しにいくのは不可能だ。

畑では春菊や枝豆、蕪が収穫の時期を迎えていた。これがあれば食いつなげるのに、原発事故のおかげで口にできない。日に日に食事がしょぼくなる。米と味噌だけはたくさんあるので飢え死にはしないだろうが、栄養失調になりそうだ。

地震直後には、遅くともこの週末くらいに元の生活に戻れると思っていた。ところが、元に戻るどころかだんだんと苦しい状況に追い込まれつつある。このときはまだ知らなかったが、放射能汚染を恐れて物資が入ってこなくなっていたのだ。原発事故のせいでなにもかもがおかしくなっていく。

18日、父が近所の病院へと出かけた。諸々の持病を抱える父にとって、月に2回の病院通いは欠かせない。幸いにも診療は受けられたが、行きつけの薬局は薬が入荷しないとの理由で閉まっていた。別の店で購入できたものの、ものすごい順番待ちだったそうだ。代金は仮払いだったとか。おつりが出せないらしい。

19日の夕方、叔母から電話が入る。錦町のガソリンスタンド ライブインえぐりSSが明日営業するという。他のスタンドも営業するかもしれないとのこと。この話を聞き、翌日は早朝からスタンドに並ぶことを決意する。

さらに深夜、友人からメールが入る。日立市内ではコンビニが営業を再開し、週刊誌くらいなら入手できるようになったとか。ガソリンも満タンにできたそうだ。物流に関してはいつの間にか逆転されていた。

原発は未だに防戦一方、事態の悪化を食い止められない。一進一退どころかゼロ進三退といった感じだ。15日、2号機で爆発音、4号機で爆発、火災発生。16日には4号機で再び火災。17日、陸自ヘリによる3号機への放水。その後、警視庁と空自が地上から3号機へ放水。

18日、空自による3号機への放水再開。東電も米軍提供の放水車で3号機へ放水。19日、東京消防庁による3号機への放水。東京消防庁の放水はかなり効いたようで、最悪の事態をかろうじて食い止めた。けれども放射性物質のお漏らしが止まったわけではなく、吹き上がる蒸気とともに絶賛放出中。やれやれ。

3月20日

午前3時、父がライブインえぐりSSへ向かった。午前5時半、私は営業するかもしれないと聞いた別のスタンドへ。しかし、そちらの情報はガセだったようで、結局は父と同じライブインえぐりSSに並ぶ。列についたのが5時50分。私の後ろにも続々と車がやってきて列が伸びていく。

車の中で待っていると父がやってきた。父の車は100台目、私は150台目くらいらしい。千葉だか横浜からと新潟から2台のタンクローリーが向かっていて、9時頃に始まる予定だとか。暇を持てあました父は、あちこち聞いて回って情報を集めてきたようだ。

私の並んでいる場所からガソリンスタンドまで1.5km。橋の上なので余震でやたら揺れるし、あまり楽しい状況ではない。目の前の景色は地震の前となんら変わりがないのだが。

江栗大橋から見た鮫川
江栗大橋から見た鮫川(いわき市仁井田町)

開店予定の9時になった。だが、いくら待っても列が進まない。そこに父から電話。昨日の余震で常磐自動車道が再び通行止めになり、タンクローリーは那珂ICから下道でくるという。このため給油が始まったのが11時過ぎ。しかも給油制限をしなかったので、やたら時間がかかったうえに父の車の11台前で空になってしまった。

新潟からのタンクローリーが到着したのは午後3時、給油が始まったのは午後4過ぎだった。さすがにまずいと思ったのか今度は整理券を配り、1台あたり3000円、19.04リットルまでということになった。

整理券をもらうと気分が落ち着く。そこに別の友人からメールが届いた。小名浜で満タンにできたという。なんか負けた気分。メールには小名浜の産業道路の写真が添付されていた。

産業道路
産業道路(いわき市小名浜)

それから並ぶこと1時間、午後5時過ぎにようやく給油。並んでから11時間以上待ったことになる。父は13時間だ。この日はこれだけで疲れ果て、ガソリンが入ったという安心感もあって早々に寝てしまった。

原発の状況は相変わらず。自衛隊が4号機への放水を実施。電源復旧作業は遅々として進まず。それでもこのときはまだ電源さえ復旧すれば解決というムードが漂っており、数日のうちに収束できると思っていた人も多かったのではないか。私もそのうちの一人だ。見事に裏切られたけど。

3月21日

21日、常磐自動車道がいわき中央ICまで通行可能になる。東京に住む叔父が食料と水を持って訪ねてきた。本当はガソリンを持ってきたかったのだが、ガソリンはともかく携行缶が手に入らなくてあきらめたとのこと。この日は雨ということもあり、家に引きこもって過ごす。

原発には放水が続く。東京消防庁は3号機、自衛隊は4号機へ。電源復旧作業も続いている。いったいいつになったら終わるのやら。

3月22日

この日から出勤。ただしこの週はアパートには戻らず、実家から通うことにした。いわき市内はまだ物流が回復しておらず、職場に出るついでに日立市内で食料を調達しようという算段である。正しくは食料調達が主目的で、職場のほうがついでなのだが。

そういうわけで職場より先にスーパーに向かう。10時の開店を狙って出発。少しでもガソリンを節約するため、エアコンとオーディオは切ったまま。久々に県境を越えて茨城県へ。ローソン 北茨城大津町店が営業していて驚く。いわき市内のコンビニはまだ閉まったままだ。

信号機が復活していた。関本町神岡上の信号機だけ故障していたが、たぶん津波にやられたのだろう。国道6号の大北川沿いの崩落箇所は片側交互通行にして復旧作業中。夕方には工事が終了していた。

北茨城市内では複数のガソリンスタンドで営業が始まっていて、車の列があちこちにできていた。父に連絡し並ぶよう伝える。その結果、ようやく父の車も満タンになった。

10時過ぎにカスミ 豊浦店へ。駐車場はいっぱいだ。いわき市ではまだ手に入らない牛乳や豆乳を真っ先にかごの中へ。あと肉はやら魚やら、食べたいものを片っ端から購入。文字通り両手に持ちきれない量になったので、2回に分けて買い物するはめになった。

その後、アパートによって被害状況を確認。電気も水もきている。ガスも大丈夫だ。インターネットも接続可能。インフラはすべて復旧済み。部屋の中では本棚の転倒もなく、積んであるダンボールの山もそのまま。電子レンジ炊飯器の蓋が割れたのが唯一の被害だった。

午後から職場へ。地震で倒れたワークステーションの電源を入れる。予想どおり起動しない。SCSI機器の検出で止まっているようなので、SCSI接続のHDDを外してみると何事もなかったように立ち上がった。

このワークステーションはOSをIDE接続のHDD、データをSCSI接続のHDDと分けて使っていた。データは吹き飛んでしまったが、OS側が生きているので復旧は難しくないだろう。不幸中の幸いか。

仕事中はテレビにかじりついているわけにもいかないので、原発についてはどうでもよくなってくる。帰宅してからテレビを見ると3号機の中央制御室に通電したとか。少しは前進したのか。

3月23日 - 24日

この2日間は買い物をせず職場との往復。渋滞を避けて燃費向上を図るため、あえて少し遅めに出勤。職場の空調はまだ復旧しておらず、夕方から急速に冷え込む。寒くて仕事にならないので、退勤は定刻どおり。

24日の夕方にはすき家 高萩店が営業を再開していた。神岡上の信号機も復活。日常が戻りつつあるのを実感する。しかしそれも北茨城まで。二ツ島付近から見える小名浜の街はなんだか暗いし、大津港を過ぎると車が急激に減る。

県境のトンネルを越えるとほとんど車が走っていないうえに、電光掲示板に原発から30km以内は屋内退避との文字が光る。これを見たら土地勘がない人は引き返したくなるだろう。屋内退避エリアまであとどれくらいかわからず、すぐに屋内退避エリアのようにも読めてしまう。屋内退避エリアまであと30kmとか、もっと表現を工夫すればいいのに。

23日、1号機の中央制御室に通電。いよいよ復旧か。ところが翌24日、3号機タービン建屋にて作業員3人が被曝。この被曝の原因となった汚染水が問題となり、以降の作業は停滞。あれだけ水を撒いたのだから水浸しは想定の範囲内だと思うのだが、なにも考えていなかったのだろうか。

3月25日

ガソリンが減ってきたので、この日は給油をすませてから出勤することにした。前日まで営業していた三井石油 大津ステーションに並ぼうと思ったら、この日に限って入荷なし。そのまま国道6号を流すと磯原の昭和シェル石油 シーサイド二ツ島SSに列ができていたので、そこに並んでみる。

しばらく並んでいたら店員が出てきた。本日は入荷なしだそうだ。しかたないので次のスタンドを探す。南中郷のJOMOネット北関東 南中郷ステーションに並ぶ列を発見。先頭までいって話を聞いてみたら、ここは入荷なしのときはその旨のお知らせがあるという。それがないということは営業するのではないかとのこと。

ところがここも入荷なし。あきらめてまた次のスタンドを探す。昭和シェル石油 高萩インターチェンジSSに列ができていた。ここは確実にやるようだが、列が松久保工業団地の中まで伸びている。いったい何kmあるんだろう。ここもあきらめて次へ。ちなみに、この行列は夕方になってもまだ続いていた。

次にJOMOネット北関東 十王ステーションへ。列があり動いている。しかもそれほど長くない。これはチャンスとさっそく最後尾につける。ところが、列を整理している店員が手にしている紙には灯油のみとの文字。

そのすぐ近くにENEOS 6号日立北インターSSがあり、やはり行列ができているので並んでみる。たまに列が動くが、それにしては遅いのでしびれを切らして先頭を見に行く。そこには本日休業と書かれたダンボールが落ちていた。たまに動くのはあきらめて離脱する車のせいだったのだ。

もうお昼ではないか。先にカスミ 豊浦店へ食料調達に向かうことにする。すると途中にあるENEOS Dr.Drive アドバンスセルフ 日立豊浦店が営業している。急いでこの列に並ぶことにした。しかし、どこまでいっても最後尾が見えてこない。列はなんと川尻どうぶつ病院の前まで伸びていた。これとは別にカスミ 豊浦店方面からの列があるから実質2倍。

並ぶこと1時間。ようやく私の番が回ってきた。給油制限があるのかと思ったら、満タンでいいですよとのこと。これはありがたい。でもよく見てみると皆20リットル程度しか給油していない。常に満タンにしておかないと不安なのだろう。

このスタンドは明後日までの営業予定を張り出していて好感が持てる。ほかのスタンドも見習ってもらいたいものだ。その後、買い物をしていったんアパートに戻り、生鮮食品を冷蔵庫に入れてから出勤。実質3時間しか仕事ができなかった。

この日の帰宅時、地震後初めての渋滞につかまる。明らかに車が増えてきたようだ。すき屋に引き続いて幸楽苑 高萩店も営業再開。街の様子が震災前にかなり近づいてきた。

3月26日 - 27日

26日は実家で過ごす。翌27日、日立市内のアパートへと戻る。戻る途中、ガソリンスタンドの様子を伺ってみると、並ばずに給油可能なスタンドが出てきていた。列がないと営業していることに気づかれず、素通りされてしまうスタンドまである始末。

27日からはいつもとほぼ同じ生活を過ごしている。震災から16日、長いようであっという間だった。とはいえ環境放射能が通常のレベルまで低下したわけではなく、外出時には気を使わざるを得ない。まだ完全な日常とはいえないだろう。

福島県内と違い、茨城県内では環境放射能を気にする人がずっと少ない気がする。放射線量の値は気にしても、なんらかの対策をするという意識はないようだ。いわき市と北茨城市、高萩市では放射線量にほとんど違いはないし、場合によっては遠方のほうが多いときもあるのだが、県境を越えると堂々と洗濯物や布団が干してある。そのくせ、いわき市はおっかねえとかいうのだからわけがわからない。

おわりに

私の身の回りで地震による直接の被害はほとんどなかった。津波がアパートの直前で止まったり、家具がいっさい転倒しなかったり、よほどの幸運に恵まれていたらしい。同僚の話を聞くと、テレビが割れたとか、川の水を汲んで生活したとか、給水所で2時間待ちとか、相当に苦労したようである。

しかし、原発事故にはさんざん振り回された。いや、振り回されたという表現は正しくない。未だに現在進行形だからだ。放射性物質の放出は止まっていないし、事態が収束する気配すら見えない。せめてこれ以上の悪化はないという見通しだけでも立てばいいのだが、それすらかなわない。ちょっと間違えると避難エリアは一気に拡大しかねない。

いわき市の物流が一時的に途絶えたのは間違いなく原発事故のせいである。事故さえなければもっと早く日常を取り戻せただろう。給油に半日も費やすこともなく、食料調達で苦労することもなかった。それに放射性物質の飛散がなければ、水だって安心して飲めたし、外出を控えることもなかった。

原発事故のため酷い目にあった。だが、私は東京電力の利用者でもある。私が使う電気のために原発があり、その原発にしてやられた。一方的に被害を訴えるのも気が引ける。複雑な気分だ。

ここまで書いたところ(4月11日)で大きな余震が起きた。いわき市錦町で震度6強。翌12日も震度6弱の余震。いわき市南部の比較的被害が小さいエリアを狙ったかのようだ。実家では3月11日の地震よりもこの余震のほうが揺れたようで、壁に大きなひびが入ったり、棚から物が落ちたりした。幸運もここまでだったということか。

余震は収束する······!
収束するが···
今回 まだ その時と場所の
指定まではしていない
そのことを
どうか諸君らも
思い出していただきたい
つまり····
我々がその気になれば
余震の収束は
10年後 20年後ということも
可能だろう··········ということ····!

利根川AAの汎用性は異常。それにしてもこの場合の我々って誰だよ。

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