♪さっさと逃げるはロシアの兵〜
私「おかーさん、それなんの歌?」
母「これはお手玉のときの歌、おばあちゃんに教わったんだ」
私「ふーん」(戦時中の歌なのかな)
これが日露戦争の歌だということを知ったのは、それから20年以上後のことであった。いやあ、インターネットって便利だね。
母方の祖母は、この歌に乗せて同時に5、6個のお手玉を操ったという。ちなみに、祖母は明治41年か42年くらいの生まれで、日露戦争勃発時にはまだ生まれていない。おそらく、曾祖母から教わったのであろう。
母から子へと4代に渡って歌い継がれた「日露戦争」。そういうわけで、私にとって日露戦争はそんな遠い過去の話ではないのである。え?そんな特殊な家庭はお前んちだけだって?うるせえ、下瀬火薬ぶつけんぞ!
という強引な前振りのもと、日露戦争ゆかりの建築物、凱旋紀念門を見物するため、いざ浜松へ。
静岡県浜松市北区引佐町渋川3795、六所神社の入口にその門はあった。引佐町にはもうひとつの六所神社があり、最初そちらに向かってしまったのは秘密だ。

話には聞いていたが、かなりしょっぱい造りである。パリのエトワール凱旋門とか、平壌の凱旋門とはスケールがまったく違う。ちょいとそこらのドロちゃんや、アタマ使わぬバカなギャングでも一晩で盗めそうだ。

サイズが小さいのはいいとして、違和感を覚える最大の要因はその薄さだろう。実際に見たことがあるわけではないのだが、パリの凱旋門に比べてどうしても厚みが足りないような気がする。文字通り「門」としてならこれが正しいのかもしれないが。

周囲の木々とすっかり同化しちゃってるし。これが神社の入口というものなんだかな。
門の足の部分には、日露戦争と日清戦争の従軍者、そして寄付金を出した人の名前が彫られている。浜松情報BOOKによると、日露戦争だけで従軍者68名だとか。申し訳ないが、この集落に兵に適した若者がそんなにいたという事実に驚く。
もうひとつ驚いたのは、海軍三等水兵の記載があったこと。こんな山の中の集落からなぜ海軍に?どういう経緯があったのだろうか。そして、ああやっぱりなと思わせる箇所もひとつ。輜重輸卒の序列はいちばん最後だということ。蝶々トンボも鳥のうちっていうアレですな。
レア度が高い建築物ではあるのだが、これ単体ではいまいちインパクトに欠ける。近くにセットで楽しめるような観光資源もなさそうだ。住所は浜松市となってはいるものの、市街中心部からはかなりの距離があり、これだけを目的にここまで来るのは厳しいものがあるだろう。
少なくとも、苺ましまろの聖地みたいのを思い浮かべてくるととんでもないことになるぞ。
元号が明治から大正に変わったのは、ほぼ100年前の1912年7月30日。凱旋紀念門が造られたのはそれよりも前、1906(明治39)年3月。ぱっと見はしょっぱい煉瓦造りの壁だが、実は築106年の由緒正しい建築物なのだ。その間、昭和東南海地震に耐え、太平洋戦争をかいくぐり、GHQから逃れ、現在に至る。
よく考えると、地震で崩れなかったのはもともとの造りが小さかったからだろうし、太平洋戦争で被害を受けず、GHQの目にとまらなかったのは、田舎の片隅にひっそりとたたずんでいたからだろう。
つまり、長生きするには「欲さず・目立たず・主張せず」を貫き通せってことだろう。現在の日本で無難に生きていくのにこれほど適した処世術はない。100年後の未来を見事に予測した、すばらしい助言である。
あれ?日露戦争って、アジアの小国が初めて西洋の大国に勝利した戦争じゃなかったっけ?なんか伝えたかったことが真逆になっているような。
(^ω^)どうしてこうなった!